1987年[ 技術開発研究助成 ] 成果報告 : 年報第01号

Walsh変換による64チャンネル・高周波超音波パルスドプラ血流速信号の実時間計測処理システムの開発とその応用

研究責任者

梶谷 文彦

所属:川崎医科大学 医用工学 教授

共同研究者

藤原 巍

所属:川崎医科大学 心臓外科 教授

共同研究者

辻岡 克彦

所属:川崎医科大学 医用工学 助教授

概要

1.はじめに
超音波のドプラ効果を利用した血流計は,超音波自体が血管・血流に対して非侵襲的であるなどの医学的に優れた特徴を持つため,臨床医学分野における血流計測に広く応用されている。近年,従来の連続波ドプラ法を改良し空間分解能を得る目的で超音波パルスドプラ法が開発された。さらに,1974年Hartleyらによって,高い分解能を得るための超音波法の高周波数化が計られた。1)我々は,臨床計測を目的とした,マルチゲート化によって多チャンネル化した高周波数超音波パルスドプラ法を開発した。我々のシステムは,実時間で血管断面血流速度プロフィルが計測できるとともに1チャンネルについては流れの乱れの分析のためのFFT分析回路を有している。2》3}このような研究経過を経て,特に動脈狭窄流の解析にはFFT分析が有効であることを確認した。そこで,本研究では,開発したマルチゲート型20MHz超音波パルスドプラ血流速計において,多チャンネルドプラ信号スペルトル分析をWalsh変換処理によって実時間で行うシステムを試作し検討した。4)5)すなわち,血管断面における血流速プロフィルと同時に流れの乱れの分析を短期間にしかも可及的に精度よく行いうるシステムの開発を目的とした。
ここでは,乱れのある流れを模擬した擬似ドプラ信号の分析と,動脈狭窄の乱れのある流れの実測評価をWalsh変換を用いて行い,本法の有効性を検討した結果について述べる。さらに,開発した高周波数超音波パルスドプラ血流計を用いた術中冠血流計測結果について報告する。
2.Walsh変換による超音波ドプラ信号処理
Fourier変換が三角関数を直交関数系とする関数変換であるのに対し,Walsh変換は三角関数を完全に飽和させたときに得られる。+1,-1の2値をとるWalsh関数系を用いた変換である。したがって,演算は加減算のみとなり,しかも高速Fourier変換と同じ高速演算手法が適用できるため,Walsh変換のハードウェア規模は小さくかつ製作は容易であり,マルチチャンネル実時間処理を実現することができる。
Fourier変換による周波数分析とWalsh変換による交番数分析は,両者共に時間関数の線形変換であるため,両変換は一次変換によって互いに変換することができる。ただし,一一般に周期関数を分析した場合,交番数スペクトルの方が周波数スペクトルよりもbroadな分布を示すことが多い。しかし9両スペクトルの上要パワーを有する交番数と周波数はほぼ一致するので,Walsh変換は周波数スペクトルの特徴を迅速に知るには十分と孝えられる。
2-1 Walsh関数系
Walsh関数系Wa1(i,t),i=0,1,2...は
によって定義される。ここで,sgn(x)はxの正負に応じで+1,-1をとる関数である。すなわち,Wal(i,t)は,三角関数を振幅制限器にかけて作った方形波であり,sgn(x)はxを振幅制限器にかけることに相当する。特にu:弦関数に対応するものをCal,余弦関数に対応するものをSalと表記する。Walsh関数系も三角関数系と直交関数系であり,区間[0,T]で定義された任意の時間関数f(t)をWalsh関数列で展開することができる:
または
Walsh変換F(k)またはFc(k)およびPs(k)で与えられる展開関数はf(t)の交番数(sequency)スペクトルを表している。交番数は,曲線f(t)が関数値ゼロの直線と交わる点,即ち,零交差点(ゼロクロス点)の単位時間当りの個数の1/2で定義され,Fourier解析に緒ける周波数に対応している。
時間tの関数f(t)が離散的であり2n個の標本列関数である場合,高速Fourier変換と同じ高速化丁一を離散型Walsh変換に適用できる。すなわち,通常のWalsh変換に必要な22nlil1の加減算数がNlog2N回に減少し,演算処理をさらに高速化できる。
2-2 擬似ドプラ信号の分析によるWalsh変換法の評価
ドプラ信号の周波数分布の特徴の中で平均周波数は平均流速に,そして分散は流れの乱雑性すなわち流れの乱れを示す。そこで,既知の周波数分布を有するドプラ信号を擬似的に作成し,その信号をWalsh変換してえられる交番数分布の平均交番数およびその分散と平均周波数および周波数分布の分散とを比較する。流れとしては平均流速を中心とするガウス分布の流れを想定する。したがって,シミュレートするドプラ信号の周波数分布はガウス分布となる。図1は,流速成分の拡がりを示す変動係数(標準偏差/平均流速)を5%,10%,15%とした場合の分析結果を示す。なお,図左側には,Walsh変換分析結果のうち最高パワーの1/4以上の交番数成分を示し,右側にはFourier変換分析結果のうち最高パワーの1/8以上の周波数成分を示している。
Walsh変換法による交番数分布の概形はFourier変換法による周波数分布とよく一致したが,半値巾(速度成分の拡がり)は交番数分布のほうが約60%大きかった。また,速度成分の分散が小さい場合,最高パワーの交番数は最高パワーの周波数(平均流速)によく一致した。
2-3 乱れのある血流の分析結果
Walsh変換法のfeasiblityをテストするため,血流速計の出力信号をマイクロコンピュータシステムのバッファメモリ(1.5Mbyte)に転送した後分析した。分析に用いる1組のデータは256で,分析性能は周波数分解能:195Hz,時間分解能:5.12msec最高周波数:25KHzである。これを血流速度に換算した場合,流速と超音波ビームの照射方向のなす角度を60度とすれば,速度分解能:1.5cm/sec,最高流速:1.9m/secである。
分析に用いた血流データは,犬股動脈(内径3mm)に75%の狭窄を作成し,その下流側8mmの位置における血管中央部で計測した血流ドプラ信号である。得られたドプラ信号にWalsh変換した結果を図2に示す。図の下部はゼロクロス法によって得た血流波形である。図上部はWalsh変換によって分析した結果であり,Fourier変換のパワーに対応するSal,Cal両成分の2乗和の中で,その最大の1/8までの成分のみを表示した。Walsh変換のパターンはゼロクロスの示す血流波形と類似したパターン変化を示した。また,スペクトルパターンの拡がりは,血流減速時の方が拡大する傾向があり,乱れが減速時に強くなることがわかる。これはFourier変換法による結果とも一致し,Walsh変換法が多チャンネル高周波数ドプラ法の周波数分析法として実用性が高いことが窺われた。
3.高周波数超音波パルスドプラ血流計による術中冠血流計測
本システムの原理・構成を図3に示す。20MHzのPZT素子超音波トランスデューサを20μsec(50KHz)毎に0.2μsec間駆動し,同じトランスデューサで血管内散乱粒子(赤血球)からの散乱波を受信し,ドプラ信号を得る。この際,駆動パルスからサンプリングを行うまでの時間を多数時点に設定することによりサンプリング回路のマルチゲート化,すなわち,血管内多数サンプル点におけるドプラ信号検出が可能となる。我々は,この深さ方向のサンプル数を80点としており,本装置の最大測定深度は15mmであるため,深さ方向の分解能は約0.19mmである。
80chのマルチゲートでサンプリングしたドプラ信号の周波数分析にはマルチゲート化したゼロクロス法と1chのフーリェ変換法を併用するシステムとした。マルチゲート化したゼロクロス法を用いることにより80ポイントの血管内血流速度プロフィルをリアルタイムで表示し得るようにした。
我々の当面の計測対象は,術中における冠血流計測である。ここでは冠動脈狭窄における大動脈一冠動脈間バイパス術(A-Cバイパス術)ならびに,大動脈弁閉鎖不全症における大動脈弁置換術などを対象とし,術中に冠動脈血流を計畠測している。その際,拍動している心臓表面上の冠動脈へうまくプローブをアクセスするために,次の2種のプローブの形状,すなわち
i)カブ型プローブ
ii)ハーフシリンダ型プローブ
を開発した。(i)は大動脈一冠動脈問のバイパスグラフトなど剥離血管用であり,(ii)は心筋表面を走行する冠動脈を非剥離下に計測するためのものである。とくに(ii)は冠動脈が脂肪に覆われている場合でも,拍動下にも安定な冠血流計測を行うことを可能とするものである。図4に冠動脈狭窄症例(左冠動脈前下行枝の90%狭窄)において,バイパス術前に狭窄部から末梢側に向かって3箇所で冠血管を剥離することなく血流計測した例についてのフーリェ分析血(11流表示を示す。正常な冠動脈血流は拡張期優位の流れパターンを示すのに対し,このような狭窄例では,狭窄部下流側で大きな収縮期成分があり,非生理的な流れてなっている。流れの乱れを示すスペクトルパターンの拡がりをみると,それが末梢に向かうほど拡大しており,狭窄直後から狭窄部末梢側に流れの乱れが拡がっていることがわかる。
冠動脈狭窄症(左冠動脈前下行枝の90%狭窄)例において大動脈一冠動脈バイパス術後の計測例を示す(図5)。バイパス吻合部より末梢冠動脈を非剥離下で計測したものであるが,バイパスを一時的に閉塞して本来の狭窄部よりの流れとした状態と,バイパスを開いた状態で計測した結果を示す。拡張期1血流波形は,バイパスを閉塞した状態では大きく障害されわずかに小さな成分しか認められないが,バイパスを開くと明らかに拡張期優位な血流となった。すなわち,このことはバイパス術によって心筋内部にいたる有効な冠灌流が得られたことを意味するものであり,本法がバイパス術の評価に役立つことがわかる。一方,バイパス吻合部末梢側の収縮期血流波形は,バイパス閉塞時・開通時ともにピークを有する尖鋭なバターンを呈し,特にバイパスを一時的に閉塞した状態でその尖鋭化が顕著であった。このような鋭いピークを有する収縮期波形はバイパス部で計測した血流には認められず,狭窄部からのジェット流を主に反映したものと考えられる。
大動脈弁閉鎖不全症例に対して,大動脈弁置換術前後の左冠動脈前下行枝の血流計測を行った例を図6に示す。大動脈弁閉鎖不全症は,冠循環不全に陥り易いことはよく知られているが,図をみると術前(上段)には収縮期優位のピーク流と,拡張期の拍動的なパターンを示し明らかに病的な流れを示している。また速度成分分布は広がっており,流れの乱れの存在も窺われる。これに対して,弁置換術を行うと図下段のごとく,収縮期のピーク流が著明に減少し,拡張期優位の生理的に近い冠動脈の流れとなった。また,速度成分分布は狭くなり,乱れが少なくなったことが示された。すなわち,弁置換術により冠血行動態が短い時間にit常化されることが示唆された。
4.まとめ
本研究により,Walsh変換分析法が多チャンネル高周波ドプラ法の周波数解析法として実用性が高いことがわかった。そして,多チャンネル化した高岡波数超音波パルスドプラ1血流計畠による冠血流計測が,心臓自体を栄養する駐要な器官である冠循環の血行動態の解析,病態心における冠循環障害の解明および手術効果の判定などに有効であることが窺われた。