2010年[ 技術開発研究助成 (奨励研究) ] 成果報告 : 年報第24号

過渡回折格子法による組織診断測定とイメージング技術の開発

研究責任者

大森 努

所属:防衛医科大学校 医用工学講座 助教

概要

1.はじめに
著者は現在光熱分光法を利用して生体材料または組織へ適用できる測定技術の開発に携わっている。光熱分光法とは、主に光吸収または光反応によって発生した熱の作用によって発生する物理量の変化をとらえる。光音響法では瞬間的な熱膨張によって発生した音響波をとらえ、光熱レンズ法では熱によって変化した屈折率がレンズ効果を起こして、別途入射した参照光の広がり・収束として検出される。光熱分光法は時間分解測定を行うことにより、物質量の熱の分布が平衡に達するまでの時間変化をとらえることができる。そのため、検出された情報は動的物性(熱拡散・分子拡散・粘性・弾性)といった量と深く関連する。特に粘性・弾性といった物理量は生体材料・組織の診断としても重要な物理量であるため、光熱分光法は生体材料の動的物性を非破壊・非接触で評価する手法として注目されている。著者は光熱分光法の一つとして過渡回折格子法(Transient Grating法,以下TG法)[1]に着目した。TG法は熱の拡散や分子の拡散を非常に幅広い時間スケール(ナノ秒から秒単位)まで測定可能な手法である。またTG法は主にナノ秒より短いパルスによる光誘起によって音波を検出することができ、また、界面に適用すれば表面張力波なども検出可能である。したがって、動的物性値を知るために生体材料および組織への利用できれば、強力なツールとなりうる。本報告書では財団助成期間中において、生体材料および組織に対してTG法の適用可能性について、色素を導入したゲル模擬試料に対して検証した結果について、報告する。
2.TG法による測定
2.1.TG法の原理
TG法は2つのレーザー光を交差させて発生する「光の干渉縞」を使って対象を励起する。すると、光吸収は干渉縞の光の強いところだけで生じるから、それによって発生する熱や反応分子は、干渉縞と同じパターンで生成する。この熱や分子の縞が、過渡的な回折格子となる性質を用いた分光法である。このようにして生じた回折格子にBragg角を満たすように別の光(プローブ光)を入射すると、光が回折され、これがTG信号光として検出される。このTG信号光は、熱や分子が拡散していくと徐々に強度が弱くなっていくから、信号光の減衰時定数が拡散係数を表すパラメータになる(図1)。
TG法によって得られる回折強度ITcは光励起後に発生する屈折率変化4nによって決まり、熱による屈折率4nrhと分子による屈折率4nspとの寄与に分割して記述すると、熱拡散係Dth,分子の拡散係数DSp,励起光の交差角で決まる格子定数をqとして、
と記述される(実際は複素屈折率であるが、虚部は吸収に対応する。ここでは無視できる)。
2.2.Bragg角の条件
波長λ。xの励起光を角度θexで交差したときにできる干渉縞の間隔Aは
である。光励起によってこの長さをもつ間隔の回折格子が過渡的に生じるから、波長易rの検出光を強く回折する入射角度eprは、Bragg角の条件
である。式(2),(3)より最終的には
を満たせばよい。ここでyex, yprは図2に示す距離であり、角度θex, θprが十分小さいとした。図2のような配置を満たすような間隔3つの平行光線を、1つのレンズで集光すればよい。
2.3.装置
励起光としてはNd:YAGナノ秒パルスレーザー(Continuum, Minilite,8-10ns)の2倍波(532nm)を、検出光としては830nmのダイオードレーザー(NewPort, LPM830-30E, CW)を光源とした。励起光はビームスプリッタで2つに分割して、等距離の光路をたどり、なおかつ検出光と共に3つの平行光線となるようミラーで調整し、レンズで集光した(光学配置は図3)。TG信号光(回折光)は試料通過後、ピンホールを通したのち、光センサモジュール(浜松ホトニクスH6780-20MOD)によって検出した。なお、TG信号光は条件が整えば肉眼でも確認できることがあるが、一般的には非常に弱い。特に今回は近赤外光を利用しているため、視認は困難である。
2.4.TG法による測定の結果
まずメチルレッドの70%エタノール水溶液をlcm角の光学セルに封入し、参照試料としてTG信号の検出を試みた(図4)。メチルレッドは通常trans型の配置をした分子であるが、光異性化反応によってcis型に変化する。そのため、Mansメチルレッドとcisメチルレッドの分子の屈折率差によるTG信号により、メチルレッドの分子拡散を示す遅い減衰信号が観測されることがこれまでの研究でわかっている[2,3]。既知の熱拡散係数(水:1.4×10-7m2/s,エタノール:8.1×10-8m2/s)から70%エタノール水溶液の熱拡散係数は1.0×104m2/sと推定され、これと減衰時定数から求めたメチルレッドの分子拡散係数の値は、2.2×10-10m2/sであった。この値は、溶媒の異なるメチルレッドの分子拡散係数[2]から考えても妥当な値である。そこで、生体模擬試料として、メチルレッドを混入した5%豚皮由来ゼラチン水溶液をそれぞれ電子レンジにて加熱して沸騰・溶解させた後、室温および4℃にて30分間以上冷却して約5mm厚の試料を作製した。容器は細胞培養用のdishまたはlcm角光学セルである。この試料に対してTG信号の検出を試みた結果、得られた信号は小さいだけでなく、100?s-lms単位の遅い減衰を示す形状には再現性があるものの、不安定な信号形状を伴い、解釈は困難であった(図5)。このゼラチン試料は目視する限り、透明度が保たれているものの、ところどころわずかに不均一な物理散乱による透過像の屈折が見られる。原因はゼラチンが冷却によりゲル化する時の部分的な収縮の違いによるものである。この影響を排除しようと試料の冷却時間を長くしてより均一性を保とうとしたり、レンズを入れるなどして散乱されている信号光の集光に努めたりしたが、議論可能になるまでの改善は見られなかった。
これは研究提案時からの懸案事項ではあったが、TG法の弱点は信号光を回折現象によってえることから原理的に散乱に弱い。生体材料および組織に利用するためには困難が当初から予想されたが、現実的に、ゼラチンのようなかなり弱い散乱性をもつ素材においても、TG法の適用に障害となることが明らかとなった。
3.近接場ヘテロダイン過渡回折格子法の適用
計画書段階では特に挙げていなかったが、著者はTG法を散乱の強い生体材料に応用する現実的な方法として、近接場ヘテロダイン過渡回折格子法(以下、NF-HD-TG法)を想定していた。通常のTG法が予想以上に散乱に影響される見通しとなったため、このNF-HD-TG法の構想を前倒しすることとした。NF-HD-TG法は片山らによって発案された分光法である[4]。光学系が一般に複雑となるTG法を、透過型回折格子の利用によって非常に安定かつ簡便に測定することができる手法である。この手法は以下に示すように、散乱に対して比較的強い分光法であり、目視で白濁しているような試料においても測定を行った実績がある[4,5]。そこで、実際に中央大学の片山建二准教授、永徳丈助教の助言を得て、NF-HD-TG法の光学系を構築して、生体材料に適用できる可能性を検証した。
3.1.NF-HD-TG法の原理
基本的な光学系は、試料直前に透過回折格子を配置し、励起光と検出光の2つの光を同軸に入射し、試料後方で回折格子からの1次回折光を検出する。この1次回折光がすでに(ヘテロダイン)TG信号としての意味を持つ。それは以下のようなメカニズムである。図6に原理の概略を示す。入射した励起光は、透過回折格子により0次光である直進光と、1次、2次…の回折光が発生する。この回折光は透過型回折格子の直後では、隣接する透過光と交差して干渉する。この干渉効果は近接場(フレネル場)だけで起きる。したがって、試料は透過回折格子の直後に置く必要があるが、透過型回折格子の格子間隔Aが長ければ、回折角が小さくなり、比較的長い距離までフレネル場は広がっているため、条件によっては十数cmほど後方に試料を置くことができる。この干渉によって発生した(0次光と1次回折光による)干渉縞は、格子から2A2/λ。xの距離(Talbot距離)ごとに周期的に生じ、その格子間隔は透過型回折格子の格子間隔Aと同じである(図6上図)。この光の干渉縞によって励起された過渡回折格子に対して検出光を入射すれば、TG信号が回折光として得られる。
ところが、検出光を同軸入射すれば、透過型回折格子を通過するので0次、1次、…の回折光が同様に発生する。このとき見かけの1次回折光には2種類の光が入ることになる。すなわち、透過回折格子による単なる検出光の1次回折光と、検出光の0次直進光が試料中の過渡回折格子で回折された光(つまり通常のTG信号)が重なっている。この双方の光は互いに試料と格子の距離4だけずれたところで回折したものであり(図6下図)、その光路差s=d(1-COSθD)に対応する位相のずれを反映する。すなわち、見かけの1次回折光は、TG信号光の光ヘテロダイン計測をしていることになる。そのときの光強度1は、1次回折光の電場をED,TG信号光の電場をETcとしたとき、
となる。式変形には(1)式を考慮した。(5)式の時間関数の部分は単純な減衰関数として記述されるため、(1)式に類似している。(1)式と異なるNF-HD-TG信号の特徴として、ヘテロダイン光強度による増強効果や、信号が屈折率変化の2乗に比例するのではなく、1乗に比例するという性質がある(通常のTG信号は屈折率変化の2乗に比例するため、微小な信号は他の信号に比べ相対的に小さくなる)。これが散乱に強い一因ともなっている。しかしヘテロダイン計測は一般に光の位相に応じて、信号形状が変わる。式(5)は光の位相が変わると信号の正負が完全に入れ替わるほどの大きな影響を示している。これはサブマイクロメートル単位の非常に精度のよい位置制御が必要になることを意味する。しかし実際には、回折角eDが十分小さければNF-HD-TG信号の測定は、非常に安定する。例えば、検出光が830nmのときには光路差415nmで信号が逆位相となる。この距離をステージで直接制御することは困難だが、実はこの光路差はeD=1.7°のときには、格子からlmm試料位置を動かしてようやく実現する光路差である。このeDは本稿2-3で行った測定での励起光の交差角と同程度であり、無理のある値ではない。またeD=1.7°を与える透過型回折格子の格子間隔は29?m(約35本/mm)である。この程度の格子間隔を持つ透過回折格子は入手が困難である(通常、回折格子は分光で利用されるため、通常格子数100本/mm以上のものが量産されている)が、これは単に市場ニーズが低いためであり回折格子作製技術に特別な困難はない。したがって、NF-HD-TG法を適用するための技術的なハードルはさほど高くないため、簡便に利用することが可能である。これは本研究におけるイメージング応用の方向性に十分かなっている。
3.2.装置
概略入りの実験配置写真を図7に示す。通常のTG信号測定用の光学配置よりも簡便であることが一見してわかるであろう。光源は2-3と同じものを利用した。励起光(532nm)と検出光(830nm)はほぼ同軸と見なせる程度(約0.3°)に交差させた。2光線の交差した箇所に透過型回折格子(Edmund製,70本/mm,片回折,0次光:1次光=4:3at633nm)を置き、直後に試料を置いた(回折格子と光学セルは接触した状態でもセルの壁圧約lmm離れている)。この透過型回折格子は量産されている製品のうち、著者が知りうる最も格子本数の少ないものであったが、TG信号の位相が入れ替わるprobe光に対する半talbot距離A2妬r=0.24mmであったため、なんとか安定した信号や制御が可能であると判断した。なお、この測定に適した透過型回折格子の作製依頼を財団予算で形状し、注文作製したが、量産品と特別異なる結果を得なかったため割愛する。信号光(見かけの1次回折光)は試料通過後、誘電多膜ミラー(シグマ光機)で励起光を遮光して信号検出した。信号検出器にはアバランシェフォトダイオード(浜松ホトニクス,C5331-04)を用いた。この検出器により(5)式の時間変化しない低周波成分を除去可能であり、信号光の時間変化のみを検出できる。
3.3.NF-HD-TG法による参照試料測定の結果
参照試料として、メチルレッドの70%エタノール水溶液をlcm角の光学セルに封入した試料に対するNF-HD-TG信号を示す(図8)。図では試料位置を変えたときに信号位相が逆転した様子を振幅の絶対値が正負それぞれで最も強かった位置で計測した結果である。図8上図の速い減衰時定数はそれぞれ、55?sで、1%以下の違いであった。減衰信号においては時定数を変えずに振幅が変わっていくことがNF-HD-TG信号の証明ともなる。実際、手動ステージを用いて試料を透過回折格子から徐々に離していくと、ほぼ同じ減衰時定数を保ったまま、振幅が減少、やがて0になり、負の振幅が成長、ピークを迎えると、やがて振幅が減少、0となり、正の振幅が成長Ⅲ…という過程を繰り返していく様子も観測され、半talbot距離(0.24mm)にほぼ対応していた。実際には、距離を離していくほど振幅のピークは減少していき、lmm以上試料が格子から離れると信号はほとんど見えなくなった。フレネル干渉の領域から徐々に外れていったものと考えられる。遅い時間領域も含めた信号を示す(図8下図)。この遅い時間領域においても振幅の位相が逆転している様子を示している(減衰日寺定数1.Oms,違いは7%以下)。
早い時間の減衰時定数は透過回折格子で決まる格子定数g=2π/A=4.4×IOsmlより、熱拡散係数Drh-1/2'Lq-9.4×10-82-1msと求められ、妥当な値を得た。一方、遅い方の減衰時定数は分子拡散とすると、2-4で求めた値より10倍ほど大きな値を与えた。このため遅い減衰信号は、分子の拡散を反映したものとは考えにくい。しかし、信号形状が図1に非常に類似していることを考えると、メチルレッドのcis-Mans光異性化後に起きた過渡格子は拡散現象よりも先に、メチルレッドが異性化の戻り反応によって緩和したものと考えられる。これはTG法が過渡的な反応を観測している上では、qが小さいとき(格子間隔Aが大きいとき)には起こりうる。逆にこのことをもって、メチルレッドのcis体から定常状態のtrans体への戻り反応が1.Omsであるという結果を得た。
3.4.NF-HD-TG法によるゲル試料測定の結果
2-4と同様の方法で作製した10%ゼラチンについて測定した結果を示す(図9)。NF-HD-TG信号は2つの寿命をもつ減衰信号であった。図の上下の信号は試料位置を変えることによる位相の反転であり、2つの減衰は両者ともTG信号であることが明らかである。なおt-0付近の負のスパイク状の信号には反転がないため、迷光と帰属した。早く減衰する信号は35?s前後で、水の熱拡散係数で概ね説明できる。一方で、遅い減衰信号は参照試料(図8)を参考にすると分子拡散はもちろん否定されるが、減衰時定数は参照試料よりもさらに1/10程度であるため、かなり速い過程となっている。
そこで、この遅い信号の帰属について検討するためゼラチンの濃度を変えたときの測定を行い、信号を比較した(図10)。すると、速い減衰信号はほとんど変わらないが、遅い減衰信号はゲル濃度が大きいほど減衰時間が速いことがわかった。参照試料を参考に考えられるメチルレッドの光異性化戻り反応は分子の構造が回転することから、周囲の粘性に関わる可能性がある。しかしゲル濃度が大きければ粘性など、分子の束縛は増えるため、傾向とは全く逆が想定される。ゲル架橋に伴って異性化後の構造がより不安定になって、異性化戻り反応が早くなっているのかもしれない。
4.まとめ:NF-HD-TG法の生体材料および組織への適用展望
ゲルのような媒体でのNF-HD-TG法の適用に成功した。この成果によって、生体材料などの適用の可能性が示されたと考えている。しかしながら、散乱による信号取得も限界があるため、今後はよりターゲットを絞る必要性があると考えている。当面は比較的透明度が高い試料・薄い生体材料(角膜・硝子体など)が評価の対象となるだろう。また、強散乱体には反射測定も想定されるが、現装置での適応は難しいことを確認した。現実的にはより強いパルスを表面に照射して、強く吸収し、表面に発生する応力波検出が妥当なところと考えている。軟骨材料などは表面の粗さなどもさほど悪くなく、コラーゲンの紫外吸収もあることから適用の候補となるだろう。また、イメージング装置構築も本財団申請での内容ではあったが、TG法の構築と基礎的な調査に時間がかかったため、助成研究期間内に融合には至らなかった。しかしながら、ステージシステムとオシロスコープを接続し、PC上のソフトウェア(MATLAB)で制御したシステムは助成期間後も作製を進めて、現在はより簡便な時間分解測定(光音響法)での動作保証をえている。この技術を生かし、NF-HD-TG法のイメージング構築を進めていきたいと考えている。