2016年[ 技術開発研究助成 (開発研究) ] 成果報告 : 年報第30号

超短パルスレーザーによるインパルシブラマン散乱顕微鏡の開発

研究責任者

寺本 高啓

所属:立命館大学 理工学部 電気電子工学科 助教

概要

1.はじめに

近年提案され実用化している新規顕微鏡技術

(蛍光標識色素分子を用いた蛍光顕微鏡、分子振動に由来するラマン信号を用いたラマン顕微鏡、超短パルスレーザーによる多光子顕微鏡など)は超高空間分解能、超高感度、リアルタイムイメージングなどの特徴を持ち、生命科学研究の進歩に多大な貢献をしている。すなわち蛍光標識色素を用いた癌の転移に関する研究やラマン顕微鏡からは癌細胞におけるカルテノイドの振動モードの消失など、病理の早期発見への診断手法としても期待されている。これらの顕微鏡は光に対する分子の応答特性(蛍光、ラマン)を駆使した技術であり、光と分子の相互作用についての知見なしには実現しえなかった手法であると言える。

しかしながらこれらの手法では光を照射することにより得られる分子の蛍光スペクトルまたはラマンスペクトルのスペクトル強度や波長に着目するのみで、スペクトルに含まれる豊富な分子科学的な情報(分子の周囲環境に依存する不均一幅、均一幅など)を吟味しているとは言えない。それに加え従来行われてきた周波数領域の振動分光法では動的な情報が一切得られない。

研究責任者はこれまで超短パルスによる分子のインパルシブラマン散乱振動分光法に携ってきた 1)。これは時間領域の新しいラマン振動分光法である。すなわち対象分子を電子励起しその緩和過程をモニタする過渡分光法の 1 種であるが、従来の手法と違い数フェムト秒という超短パルスを光源として用いるためラマン過程により分子振動が同時に励振される。その結果、時間分解計測を行うことにより分子が正に振動している様子が観測できるのである。

本研究で提案する超短パルス光源を用いたイ ンパルシブラマン散乱顕微鏡とは、時間領域の振動分光法であるインパルシブラマン散乱振動分光法と生物分野で多用されている蛍光顕微鏡を 組み合わせた新規顕微鏡である。インパルシブラ マン散乱は時間領域のラマン分光法なので、周波数領域のラマン分光で問題になる蛍光によるバックグラウンドの影響が全くなくカットオフフィル タなしに低波数からラマン分光計測を行う ことができる。さらに電子励起状態における分子 情報(超短寿命の電子励起状態の発光スペクトル、分子振動モード結合による分子振動変調、光異性化による分子構造変化に誘起される分子振動モ ードなど)は基底状態には存在しない信号である から、バックグラウンドフリー検出が可能となり 超高感度化が期待できる。蛍光顕微鏡と組み合わ せることにより、超解像顕微鏡で培われた高空間分解能が実現できると期待できる。

また一方で単純に顕微鏡の照明光源の波長を短くすることにより、高い空間分解能を実現しようとする試みがあり、軟 X 線を照明光源として用いた軟 X 線顕微鏡が最近注目されつつある。特に波長 2.4~4.4nm の軟 X 線は「水の窓」領域と呼ばれる波長帯で、水による吸収が少ない一方でタンパク質を構成する炭素や窒素など軽元素の内殻 1S 軌道の吸収端を含む。そのため軟 X 線の波長を選択することにより生きた細胞の構成元素を非破壊的にマッピングすることができる。 近年 X 線の超短パルス(<10fs)レーザーである X 線自由電子レーザー(X-ray Free-electron laser:XFEL) が開発され利用できるようになってきている 2)。日本で現在稼動している XFEL の波長は硬 X 線であるが、将来的に軟 X 線の FEL が立ち上がることが計画されている。本研究ではその将来も見据えて、XFEL によるインパルシブラマン散乱顕微鏡を実現するための予備的知見を得るための実験も行ったのであわせて報告する。

 

2.インパルシブラマン散乱振動分光の概要

以下に実験の詳細について述べる。

 

2-1 可視領域超短パルス光源の開発

光源システムの概略を図1(A)に示す。フェムト秒再生増幅器(800nm,30fs,0.7mJ, 1kHz)から射出されるレーザー光は、YAG 結晶に入射することにより白色のシード光を発生させる。それを

800nm  の 2  倍波である 400nm  を用いてNon-collinear   Optical   Parametric   Amplifier(NOPA)3,4) を行う。発生した超広帯域パルス光はチャープミラー対およびプリズム対によりパルス圧縮され、最終的に可視領域超短パルス(520-730nm,<10fs)が得られる。発生した超短パルスのスペクトルを図 1(B)に示す。

(注:図1/PDFに記載)

(A)可視領域超短パルス発生光源システム

(B)発生した超短パルスのスペクトル

 

2-2 Cy3 分子のインパルシブラマン散乱振動分光

得られた超短パルス光を用いてインパルシブラマン散乱振動分光システムの構築を行った。テスト試料としては、蛍光標識色素として多用されている Cy3 分子の水溶液を用いた。

超短パルス光はポンプ(40nJ)とプローブ(2nJ) に分岐され、相対遅延時間を変えながら放物面鏡 でそれぞれ試料に集光された。試料透過後のプロ ーブ光は、分光器で波長分散した後にフォトダイオードリニアセンサカメラで多波長同時計測さ れた。ポンプ光の有無による吸光度変化(DA)を

-100fs から 1100fs まで 1fs ステップで測定した。得られた実験データを図 2(A)に示す。符号付きの吸光度変化の強度が青から赤色で表示されている。560nm 付近に負の光退色によるピークが現れるが、これは定常吸収スペクトルのピークに対応している。計測した時間領域(1.1ps)において、信号強度の減衰が見られないことから、関与する電子状態は S0 および S1 状態のみであると帰属できる。また図2(A)をフーリエ変換することにより、インパルシブラマンスペクトルを得ることができる(図2(B))。信号強度は微弱ながらも複数のラマン信号を得ることに成功した。Cy3 分子の定常吸収スペクトル、蛍光スペクトルに現れる振動のプログレッション 1160, 807 cm-1 以外にも有意なラマン散乱断面積を持つ振動モードが複数存在することが初めて明らかとなった。これまで周波数領域のラマン測定では観測できなかった理由としては、ラマン散乱断面積が小さいということと共鳴ラマン測定を行うと蛍光によるバックグラウンドが大きく有意なラマンスペクトルを得ることが困難であるためであると考えられる。こ

(注:図2/PDFに記載)

Cy3 分子のインパルシブラマン散乱振動分光

(A)実時間追跡(B)インパルシブラマンスペクトル

(注:図3/PDFに記載)

図3 シアノバクテリアの細胞のトモグラフィー画像

のようにインパルシブラマン散乱振動分光から蛍光により埋もれた振動モードを観測できるという特長があるといえる。

 

3.生きた細胞の軟 X 線顕微観察

軟 X 線 FEL によるインパルシブラマン散乱顕微鏡の開発を行うための予備的知見を得るため、立命館大学の放射光施設 SR センターに常設されている軟 X 線顕微鏡ビームラインを用いて、生きた細胞の顕微観察を行った。

試料として用意したのは、光合成細菌である糸 状性 シア ノバ クテ リア であ る。 波長2.98nm(窒素 1s 吸収端より短波長)の軟 X 線を照明光源として用いた顕微画像を図3に示す。キャピラリー中に封入したシアノバクテリアを透過画像撮影し、キャピラリーを回転させCT スキャンすることによってトモグラフィー画像を得る。逆ラドン変換を行うことにより、細胞の 3 次元構造を再構築した。このようにシアノバクテリアの細胞にある窒素原子をマッピングすることに成功した。

 

4.まとめと今後の展望

サブ 10fs の可視超短パルス光源の開発に成功し、インパルシブラマン散乱振動分光システムを構築するに至った。Cy3 分子のインパルシブラマン散乱分光実験の結果から、従来の周波数領域のラマン分光では蛍光による背景光で埋もれてしまうようなラマン信号でも観測できることが実証された。今後、このシステムの改良および蛍光顕微鏡システムとの組み合わせを行い、最終目標であるインパルシブラマン散乱顕微鏡の構築を行う。非接触、非侵襲で癌などの疾病に対する高感度なツールになると期待できる。

さらに研究責任者は X 線自由電子レーザーを用いた研究も行っており、最近空間配向した分子の光電子回折に成功しその成果を報告した 5)。現在世界的に X 線のフェムト秒レーザーの開発が激化しつつあり、国内施設においても軟 X 線FEL の実用化が予定されている。今後インパルシブラマン散乱顕微鏡のノウハウを構築し、軟 X 線 FEL での顕微画像法と組み合わせることにより、非染色で生きた細胞を高時空間分解能でかつ元素・分子振動選択的な顕微画像を得ることができるようになると期待できる。