2010年[ 技術開発研究助成 (開発研究) ] 成果報告 : 年報第24号

赤外分光による非侵襲的細胞解析装置の開発

研究責任者

粟津 邦男

所属:大阪大学大学院 工学研究科 環境・エネルギー工学専攻 教授

共同研究者

石井 克典

所属:大阪大学大学院 工学研究科 環境・エネルギー工学専攻 助教

概要

1.はじめに
1.1赤外分光分析の再生医療への応用
再生医療が次世代の有望な治療法として注目を集めており、日本の国家戦略として重点的に研究開発を行うターゲットの1つにもなっている。再生医療の実用化においては、細胞・スキャホールド・これらの複合材料などの安全性を保証することが重要視されており、これらの有効性、妥当性、安全性の確認や評価方法の確立が、早期の実用化を図る上で極めて重要である。光分析の非侵襲性は、抗体標識を利用しない評価手法としての特性を併せ持ち、移植前の細胞および細胞材料の品質分析技術及び再生治療による組織再生過程の術後診断技術において、そのカを発揮できる可能性がある。
赤外分光分析は、分子振動由来の情報から生体分子を同定することができることから、細胞や組織の特徴的な分子に関する振動や発色団に関する波長の情報を得ることで、抗体標識を利用しない非侵襲的な分析手法として有用である。我々は、赤外分光分析を再生医療に利用される細胞、スキャホールドなどの生体材料の評価手法に適応するため、生体材料に化学修飾した官能基(リン酸基等)、組織前駆細胞の分化(脂肪分化等)、問葉系幹細胞の分化(骨芽細胞分化等)など、赤外分光を用いて低侵襲に、かつ従来法との相関を利用して定量的に解析する手法について研究を進めてきた。図1に間葉系幹細胞の骨芽細胞分化における赤外吸収スペクトル変化、図2に骨芽細胞分化に特徴的な波数1032cm'1(リン酸カルシウムのリン酸基P-0結合由来)の赤外吸収ピーク変化及び従来法との相関を示す。これらの研究より、分化により変化する幹細胞を赤外吸収スペクトル解析することにより、細胞の分化の程度(細胞の移植時期)を評価・最適化できることを確認した。
1.2光学特性算出の現状と課題
市販の分光分析装置で計測される透過率(吸光度)・反射率などの数値は、試料の厚みに依存するため定数ではない。生体組織の光学特性(光学定数)とは、吸収係数μ。、散乱係数μ、、非等方性散乱パラメータg(gパラメータ)などで表わされる。一般にマクロな散乱現象はその強度を表わすμ、と散乱された光の方向に関する強度分布を表わす散乱の位相(角度0)の関数p(0)によって表わされる。ここでμ、は、散乱によって光の強度が11eとなるまでに進む距離の逆数で定義される。生体組織によるマクロな光の散乱の位相関数p(0)は強い前方散乱を示す。散乱の方向性を表わすパラメータとしてp(0)の平均余弦を取った非等方性散乱パラメータgがよく用いられる。gは一1~1までの値を取り、-1で純粋な後方散乱を、0で等方散乱を、1で純粋な前方散乱を表わす。生体組織は強い前方散乱特性を持つことから、gは0.9程度の値を取ると理解されている。非等方性が強い散乱であっても、散乱を多数回繰り返すことでマクロには等方散乱で近似することが可能である。このときの等価的なμ、は換算散乱係数μ、'=μ、(1-g)で表わす。一方、吸収現象はその強度を表わすμ。で表わすことができる。μ。は吸収によって光の強度が11eになるまでに進む距離の逆数で定義される。細胞・組織の場合、近赤外域より短い波長域は、一般的にμaよりもμ,の方が大きい。一方、近赤外域より長い波長、中赤外域では散乱が無視できるほどμ、が大きい。すなわち、細胞・組織の中赤外域のμ,に関しては研究報告がほとんどないのが現状である。生体組織の光学特性を定量的に把握すること(光学定数を決定すること)は容易ではない。しかしながら、生体組織中の光の吸収・散乱は、光医療において非常に重要な要素である。光学技術や計算技術の進歩により、1990年代から生体組織の光学特性に関する研究が行われているが、未だ発展途上の段階である。
光学特性値算出の研究において、積分球という光学機器を用いる場合が多い。積分球とは球の内部表面を光があらゆる方向に散乱するように加工した装置である1)。通常いくつかの窓が設けられており、この窓に試料を設置して測定を行う。試料に入射した光は試料内部で散乱された後に入射面から(=反射)あるいは反対側の面から(=透過)出て行くことになる。反射光および透過光はあらゆる方向に向いており、積分球はそれらを全て集めて反射率Rと透過率Tを測定することができる。
RとTの測定結果から得られる物理量は、試料内部を均質としたときの試料のμ、とμ。である。μ、とμ。は次のような手順で繰り返し計算によって求めることができる。まずμ、とμ。を推定し、その推定値を用いて吸収を含む散乱の計算を行い、RとTを求める。次に、「計算によって得られたRとTの値」が「測定したRとTの値」と一致しなければμ、とμ。を推定しなおし、再び計算を行って新たなRとTの組を求めることを繰り返す。最終的に、「計算によって得られたRとTの値」が「測定したRとTの値」と一致したときに推定したμ、とμ、を解とする。これらの計算の数学モデルとしてはいくつかの手法が確立されているが、統計的手法であるMonte Carlo法2)や、数値的解法であるAdding Doubling法3)などが現在の主流である。
これまで各種の分光測定法と物理計算(lnverse Monte Carlo(IMC)法4)、Inverse Adding Doubling(IAD)法5)・6)、空間分解法7)、時間分解法8)など)とを組み合わせた様々な手法によりその光学特性値を決定する試みがなされてきた。従来の研究では、可視・近赤外域の離散的な波長における報告が多く9)・10)、その対象は特定の組織(血液11)・12)、皮膚13)・14)、脳15)・16)、肝臓17)・18)など)である。すなわち、生体組織の中赤外域の光学特性値算出は未踏の領域である。実際、対象が生体組織以外であっても、中赤外域の光学特性値算出に関する研究は非常に少ない19)・20)。つまり、中赤外域の正確なTとRの測定システムの確立から、TとRを用いて中赤外域のμ、とμ、が算出できるか、その物理計算手法まで研究の余地がある。さらに、対象が再生医療に用いる細胞の場合は、細胞試料を低侵襲に分析可能なサンプルホルダーの開発も求められる。
2.研究内容・目的
そこで研究では、中赤外域の正確な光学特性値を算出するための要素技術として、TおよびRが測定可能な積分球光学系を開発することを目的とし、積分球光学系の開発および細胞試料の測定を行った。本研究により試作される積分球光学系を用いた分析により、細胞・組織のμ、を(将来的にはμ、も)決定することができると期待される。細胞の移植最適時期などを非侵襲かっ定量的に評価可能な新たな知見を得ることができる。
3.積分球光学系を用いた赤外分光分析装置の開発
まず、積分球光学系の開発を行った。中赤外波長域を拡散反射可能な反射面を持つ金コートの積分球(カスタムメイド3インチインフラゴールド積分球,Labsphere Inc., USA)を2っ使用した。反射球の入射側および出射側のポート直径はそれぞれ5mmおよび10mm、透過球の入射側のポート直径は10mmとした。フーリエ変換型赤外分光光度計(Magna 550, Thermo Fisher Scientific Inc., USA)の光源、光学系、マイケルソン干渉計を利用し、双積分球光学系を備えた赤外分光システムを構築した。検出器には液体窒素冷却型MCT検出器(MCT-13-4.0,InfraRed Associates Inc., USA)を使用した。
生体試料の赤外分光分析では試料の厚みを非常に薄く(μmオーダー)しなければならない。また、正確なμ、の算出には正確な厚み(光の通過する距離)が必要である。そこで我々は、試料厚みを正確に設定可能なサンプルホルダーの開発を独自で行った。窓材に厚さ1mmのBaF2を用い、厚み調整幅が~13mmで0.5μm単位で可変制御可能なサンプルホルダーの開発に成功した。開発した積分球赤外分光システムの積分球光学系(図3)およびサンプルポルダー(図4)を示す。
4.間葉系幹細胞を用いた実験
開発した積分球赤外分光システムおよびサンプルホルダーを使用し細胞試料の総透過率の測定を行った。細胞にはマウス骨髄由来間葉系幹細胞株Kusa-A1(Cel1 Bank、RIKEN BioResource Center)を用いた。FBSを10%含むDMEM培地でコンフルエントまで培養した未分化のKusa-A1細胞をセルスクレーパーで回収し、赤外透過性結晶BaF2基板上に滴下し薄膜状の試料とした。波長域2.5~12.5μm(波数域4000~800cm'1)、分解能4cm'1、積算回数1024回で測定を行い、SIN比の良い拡散透過率スペクトルを得ることに成功した。間葉系幹細胞の総透過率スペクトル(図5)を示す。
5.おわりに
本研究では、正確な試料厚みを設定可能な積分球赤外分光システムの開発を行い、間葉系幹細胞試料の総透過率スペクトル測定を達成した。中赤外域の正確な光学定数に関する知見は非常に少ないため、細胞・組織の光学定数算出に向けてシステムを改良し、様々な細胞・組織の中赤外域の正確な光学特性値広帯域スペクトルを決定し、細胞・組織別で網羅的なデータベース化を目指す。本研究の最終目的は、赤外分光分析技術を利用し、細胞を生細胞(溶液状態)のまま、抗体標識を利用せずに低侵襲的に計測可能な非侵襲的細胞解析装置を開発することである。本研究により、移植細胞の信頼性・安全性の確保が可能となり、細胞移植治療の実用化加速に貢献できると考えている。
本アイデアにおいて、評価のパラメータはTやRではなく物理定数である光学特性値(μaやμs)の適応を検討している。しかしながら、現状いくつかの課題を抱えている。具体的には、①赤外白色光源を利用する場合、正確な拡散反射率測定のために光源の高出力化が必須、②細胞試料の分析形態(サンプルホルダーの改良)、③散乱の小さい中赤外域で従来の物理計算プログラムが適応できるかどうかである。今後は赤外波長可変レーザーの導入(広帯域を高安定度で発振可能なレーザーの開発)を含めて光源強度を上げることに取り組むほか、中赤外域におけるμ。およびμ、算出のための理論および計算プログラムについて検討を行っていく予定である。