1996年[ 技術開発研究助成 ] 成果報告 : 年報第10号

脳神経外科手術における運動機能のモニタリングの開発

研究責任者

桐野 高明

所属:東京大学 医学部 脳神経外科 教授

共同研究者

鈴木 一郎

所属:東京大学 医学部 脳神経外科 講師

共同研究者

谷口 真

所属:東京大学 医学部 脳神経外科 助手

概要

1.まえがき
脳神経外科手術を安全に行うことは,脳外科医全体の願いである。現在脳神経外科手術は全身麻酔のもとで行われる事が殆どだが,この場合手術の最中に患者の神経機能を把握するのは極めて困難である。そこで全身麻酔下の患者の神経機能を評価する手段として術中電気生理学的モニタリング法が注目されている。これは,手術中に各々の手術で問題になる神経機能を反映する種類の電気生理学的検査を選択してこれを繰り返し施行し,手術操作に伴う神経への侵襲を検査所見の変化を通じて察知し,術者に警告することでさらに致命的な障害が加わる以前に回避させようとする試みである。
このような試みが注目されて既に10年強になるが,今までに実用に供されたモニタリングはまだ少なく,顔面痙攣や三叉神経痛治療のための微小神経1血管減圧術の際に聴力保存を目的として聴性脳幹反応(ABR)モニタリングが行われるのと,内頸動脈の一時的もしくは恒久的閉塞を伴う脳血管手術(脳動脈瘤クリッピング,頸動脈内膜剥離術等)の際に体性感覚誘発反応(SEP)や脳波測定による大脳機能モニタリングが行われる程度にとどまる。これはモニタリングが行われ始めた当初,ABRやSEP等の感覚性誘発電位や脳波検査では既に測定技法,測定装置等が確立しており術中モニタリングへの導入がし易かった経緯による。
これに対し,運動性誘発電位は,80年後半以降に実用化されるようになった比較的新しい検査モダリティーで,術中モニタリングへの応用も遅れがちであった。しかし,患者の術後の生活の質を最も大きく左右するのは,咀噛,嚥下,歩行,摂食,排泄等の運動機能の行方であり,従って信頼の置ける運動機能のモニタリング法の開発は,脳外科医にとっても患者にとっても極めて大きな意義を持つ。筆者らは,このような運動機能のモニタリングの開発を企図し,この為に必要なハードウェア,麻酔法等の整備を行い,この中でも運動神経のモニタリングについて実際の症例において運用したので,その経験を報告する。
2.対象・方法
a)検査モダリティーの選択
新しい電気生理学的検査モダリティーによる術中モニタリングが実用化され,手術を受ける患者の本当の利益につながるまでには,以下のような問題点が解決されていることが前提となる:第一に,評価の尺度として用いる検査所見が,全身麻酔薬の影響下でも安定して連続記録可能なものであること。全身麻酔薬が神経機能の抑制によって作用を発現する以上,多くの電気生理学的反応も当然抑制を受ける。モニタリングにあたっては麻酔薬の影響の少ない検査モダリティーを選択するか,もしくは使用する検査モダリティーに影響を与えない麻酔法の選択が必要になる。第二に,各々の検査所見の変化が,それぞれの手術に際し危険にさらされる各種神経機能の低下を正確に反映し,しかもそれがまだ可逆的な時点で既に変化として検出可能であることが重要である。また第三に,時々刻々と進行する手術の最中に頻回に検査が可能であり,術者に常に最新の情報を提供できることが必要になる。検査所見の変化を素早く察知し,必要なら手術操作の中止を要請出来るため,また不幸にして神経障害を来す結果になったとしても,どの手術操作がその原因であったかを明確に出来るためには,理想的にはリアルタイム測定,ゆずっても最低30秒から60秒のインターバルで新しい検査結果が得られている必要がある。これには,手術室という微細な信号の測定に極めて不適切な環境下で,いかにしてS/N比の良い信号を得るようにするかいろいろの工夫が必要である。出来るだけ原信号の電位の大きな検査モダリティーの選択,ノイズ対策,抑制の少ない麻酔法の選択等がこれにあたる。一口に運動機能の電気生理学的検査と称しても,実際には大脳皮質から脊髄,末梢神経から支配筋に到るまでの長い経路全体を対象とする。扱う疾患,手術の種類によって危険にさらされる部位も異なる。このうち今回,筆者らが対象としたのは,運動性末梢神経が危険にさらされる手術で,運動神経への手術侵襲を防ぐ神経・筋モニタリングの開発とした。これは,末梢神経から支配筋までの経路が,比較的全身麻酔薬の影響を受けにくく,筋弛緩剤を使用しないという条件さえ追加すれば安定した術中記録が可能なこと。また,筋電図を測定指標とするため電位が比較的大きく(mV-100mV単位)S/N比が良好で加算を必要とせず,リアルタイムのモニタリングが可能なこと等,前述のモニタリングモダリティーとしての必要条件に合致するからである。
平成6年及び7年を合わせて総計26例の聴神経腫瘍と6例の脊髄脂肪腫手術において神経・筋モニタリングが施行された。聴神経腫瘍は,名前の通り聴神経(正確には前庭神経)から発生する。聴神経がもともと顔面の運動を支配する顔面神経と併走しているため,聴神経腫瘍では,顔面神経は薄く引き延ばされ肉眼的に認識困難な状態で腫瘍表面を走行している。本腫瘍の手術においては,この顔面神経を解剖学的並びに機能的に保持しつつ腫瘍を摘出することが目標とされる。また,脊髄脂肪腫は主として腰仙部で腰仙髄神経を巻き込む形で発育しており,同じく手術にあたって脊髄神経の損傷による歩行機能の悪化,膀胱直腸障害の出現等を防止する必要がある。
今回は,聴神経腫瘍手術の際には眼輪筋と口輪筋の各筋電図を,腰仙髄脂肪腫の場合は,前頸骨筋,腓腹筋,肛門括約筋の各筋電図と膀胱内圧を持続測定した。
b)ハードウェアの整備
図1は,今回作成使用した機器の概念図である。前述したように患者の状態は手術中を通して刻々と変化しており,一瞬の操作が神経機能に致命的な障害を与えることもある。この意味で理想の術中モニタリングではリアルタイムに近い情報提供が可能でないといけない。上述の検査モダリティーの選択も重要であるが,これに加えてモニタリングに適した装置の開発の必要がある。現行の電気生理学的診断機器は,基本的に内科的診断機器として,通常の診察室で一患者について一回限りの検査を行うように構築されており,ハードウェア側の制約が多く術中モニタリングには最適といえない。術中神経・筋モニタリング専用機器としては,以下のような条件が満たされている必要がある。
1,手術の情景と,筋電図変化がモニターの同一視野内で観察可能なこと。
2,あとで再生検討が可能な様に手術の進行と筋電図所見の推移を全て記録に残せること。
3,筋電図変化を眼のみでなく耳でも捉えられる様に,音声化しかつ記録できること。
幸い脳神経外科手術の多くは顕微鏡下に行われ,手術用顕微鏡に接続されたビデオカメラで手術の状況をビデオ信号として入手する事は容易である。そこで筆者らはビデオテープを記憶媒体として利用し,手術の情景とビデオ信号に変換した筋電図所見を画像合成器にて合成し,さらに音声を加えて一つのテープ上にリアルタイムで記録することとした。
さらに実際の運用に入った後,筋電図を音声化したため,手術中に頻用する電気凝固のアーチファクトが増幅されてうるさく術者の集中力を乱すのが問題となった。これには,電気凝固で用いる高周波成分を検知したときのみ自動的に音声をカットするノイズフィルターを作成して対処した。
c)モニタリング手法
聴神経腫瘍摘出手術時の顔面神経温存のためには,2つのモニタリング法を併用した。一つは,誘発顔面筋電図モニタリングである。これは,術野で顔面神経の位置走行を確認するために術野内に銀製単極性刺激電極を持ち込み微小な刺激電流を用いて顔面神経及び顔面表情筋の興奮を誘発する方法である。通常脳幹顔面神経起始部で刺激を加えるとほぼ5msの潜時をおいてpeak-to-peakで500μV程度の複合筋活動電位が誘発される(図2)。同様の方法そのものは過去にも多く報告があるが,筋電図では無く顔面のそのものの動きを確認していたものが多く,また筋電図反応を記録したものでも,この方法を術野での顔面神経の位置走行の確認のみに用いていた。これに対し筆者らは,同一箇所の顔面神経を同一刺激条件で刺激し,しかも術中にその反応の振幅を繰り返し測定することで,顔面神経の連続性を定量的に評価しその結果を参考に手術方針を決定できるよう検討した。
もう一つのモニタリング法は,フリーラン筋電図モニタリング法である。これは,特に刺激電流を送らず,顔面表情筋の筋電図を手術の間を通して連続的に観察する方法で,術者が術野で顔面神経を認識するより先に毛術操作で神経に障害を加えてしまう危険を回避すべく,機械的刺激に伴って発生する神経の興奮を筋電図を介して察知使用とする試みである。電気的刺激に同期させた記録ではないのでフリーランと名付けた。過去に数例同意趣の報告があるが,検討不卜分で,まだ臨床的有用性について未知数である。今回は,手術操作に伴ってどのような異常所見か見られ,それぞれどの程度の神経障害と対応するかについて検討した。
3.結果
26例の聴神経腫瘍と6例の脊髄脂肪腫手術において本装置を用いたモニタリングを施行した。全例においてアーチファクトに妨害されずに測定記録か可能であった。顔面神経は全例において術野で同定され解剖学的連続性を保って保存された。顔面神経機能を「良好」(House-Brackmann scale I&II),「やや障害あり」(III&IV),「完全障害」(V&VI)に大別すると,手術直後では,12例(46%)が「良好」,12例(46%)が「やや障害あり」,2例(8%)が「完全障害」であった。全ての手術患者は外来でフォローアップが行われたが,6カ月以上の長期フォローアップの終了時には,「良好」92%,「やや障割4%,「完全障害」4%に回復した。モニタリング導入直前の同一術者の14例の成績では,解剖学的顔面神経保存率93%,術後6カ月の時点での「良好」例が77%であったことを考慮すると本モニタリングの導入の効果がわかる。
手術に際してはまず脳幹側で顔面神経起始部を同定し,直接顔面神経そのものに手術操作の加わる前の誘発筋電図反応を得てこれをコントロール値とし,これが手術操作に伴いどの程度まで減衰するかをもって顔面神経の機能的連続性の評価尺度とした。手術直後の顔面神経機能はこの誘発筋電図反応の振幅の減衰度と極めて良く相関した(図3)。
手術終了時に開始時の3分の2以上の振幅の誘発筋電図反応が得られた症例では顔面神経機能は手術直後から全例で「良好」であった。逆に3分の1を下回る症例では,手術直後は全例「やや障害」以下の成績であった。3分の1から2の問に属する群でも,直後はやはり「やや障害以下」のものが大部分であったが,前者が少なくとも最初の3カ月の間はあまり明瞭な回復を示さなかったのと異なり,後者では,ほぼ半数で急速な回復を来し「良好」群となった。
フリーラン筋電図モニタリングでは,手術操作に伴い大別してrepetitive typeとnon-repetitive typeの筋電図反応が見られた。repetitive typeには,おそらく単一の運動単位(motor unit)の連続発火によると考えられる50μV程度の振幅で20Hz以下の周波数のいわばsimple type discharge(図4)と,振幅はほぼ同一だがより速い周波数(300Hzまで)で短時間持続のcomplex discharge(図5),及び複数のmotor unitが同時に固有の周波数でsimple dischargeを来たしたものと思われるnoise等が見られた。このうちsimple type dischargeは,比較的太い神経束が牽引を受けた際に良く見られた。またnoiseは,生理食塩水による術野の洗浄操作に付随して発生することが多かった。
non-repetitive typeは,手術器具が顔面神経をこすって刺激を与えた時にしばしば,一瞬100mv程度までの比較的大きな振幅の筋電図反応が見られたものを指す。腫瘍被膜内で腫瘍の内減圧操作を行っている際に腫瘍被膜が徐々に薄くなり,裏面に隠れていた顔面神経に操作による外力が達した時に見られることが多く,顔面神経を発見,損傷を回避する上で極めて参考になった。
フリーラン筋電図モニタリングでは,しかし必ずしも神経に対する損傷を全て察知できるわけではなく限界があるようであった。実際,手術の終了時まで肉眼的に顔面神経の連続性が保たれていたにも係わらず誘発筋電図反応が出現しなくなった2例では,終止フリーラン筋電図モニタリングが行われたにもかかわらず上記異常筋電図反応の何れも認められなかった。また異常筋電図反応の出現度数,持続時間と手術直後の顔面神経機能の間には相関関係は認められなかった。
脊髄脂肪手術についても同様の2種のモニタリングが行われ誘発筋電図,フリーラン筋電図にて同様の評価が行われた。フリーラン筋電図では上記simple type dischargeとnoiseに相当する異常所見も術中観察された。幸い現在まで術後機能悪化例を経験せず,また絶対症例数も少ないため,本疾患群での神経・筋モニタリング法の有用性については今後未だ追加検討の要があると考えられる。
4.考察
運動系の術中モニタリングが実用化された場合の患者に対する恩恵は計り知れない。しかし既に述べたように運動系伝導路は長く,また種々の手術でいろいろのレベルでの障害が起きるので,複数のモニタリング法が必要になる。また既述の様に,運動系に限らず一つの新しいモニタリングモダリティーが実用の域に達するために必要なステップはかなり多い。今回筆者らは比較的実用化への支障の少ない神経・筋モニタリングを選択し,ハードウェアの整備に主眼をおいて研究を行った。顔面神経は,表情をつくりコミュニケーションの主役をなす重要な神経である。聴神経腫瘍摘出時の顔面神経機能保存を目的とした今回のモニタリングシステムの開発導入は実際明らかに手術成績の向上につながった。
このように全ての情報を一箇所に集中して監視,記録,再生できる今回のモニタリングシステムは,今後神経・筋モニタリングのみならず多方面の術中モニタリングに応用可能で,また異常所見を記録に残せる利点は今後術中モニタリングを志す者の教育,啓蒙のために多いに力となるものと考えている。
5.結論
1,聴神経腫瘍手術時の顔面神経温存を目的に,ビデオモニター画面に手術操作の進行状況と顔面表情筋筋電図所見の変化が複合表示される新しい術中モニタリング装置を開発した。
2,筋電図を評価尺度にするモニタリングでは信号の良好なS/N比のため真のリアルタイムモニタリングが可能になった。
3,顔面表情筋誘発筋電図の反応振幅を術中に繰り返し測定することで顔面神経への障害程度が定量的に評価可能になり,術中の意志決定に有益な情報を提供した。
5,フリーラン筋電図モニタリングは,術者が手術中に意図せず顔面神経に障害を与えた局面を検出し,更なる障害を回避させるのにしばしば有効であったが,false negative responseもあり,今後の経験の蓄積,手法の洗練が必要であると思われた。
6,同様の手法が,腰仙髄脂肪腫の摘出手術の際の膀胱直腸機能,下肢機能の温存を目的としたモニタリングにも応用可能であった。