1993年[ 技術開発研究助成 ] 成果報告 : 年報第07号

脂質膜をトランスデューサとするマルチチャンネル味センサ

研究責任者

都甲 潔

所属:九州大学 工学部 電子工学科 助教授

共同研究者

林 健司

所属:鹿児島大学 工学部  助教授

共同研究者

山藤 馨

所属:九州大学 工学部  教授

共同研究者

飯山 悟

所属:近畿大学 九州工学部 教授

概要

1.まえがき
現在,物理量センサが比較的容易に実現されているのに比べると,味覚あるいは嗅覚センサは実現が困難で,現在は未発達の段階にある。味覚と嗅覚は,ある単一の物理量が変換されたものではない。味覚嗅覚感覚器は非常に多数の化学物質を複合的に受容しているのである。このようにして生じる感覚を再現し,生物と同様な特性を持つ人工のセンサを作ることが課題であるが,現在では,味や匂いの受容機構が明確ではなく,しかもその2つの感覚量の定量的な表現が困難である。通常は,化学センサは物質選択性が重要視され開発が進められている。しかし,選択性の高いセンサで味覚をセンシング,表現するには,様々な味物質に対応したセンサを多数用意する必要があり,現実的ではない。さらに,生物の味受容機構とは異なる機構で味物質を検出するこの方法では,広く知られている味物質問の相互作用といった味覚現象を再現することはできない。さらに,生物の化学感覚は高感度であり,センサを作る際の問題の一つとなっている。味の受容器は舌上の味蕾中に存在する味細胞である。味物質は味細胞の先端に位置するミクロビリー膜で受容される。ミクロビリー膜は生体膜であり,脂質二分子膜と蛋白質で構成されている。膜の主要構成成分である脂質が味受容において重要な役割を果していることが知られている。この脂質が様々な味物質を同時に複合的に受容し,受容器電位に変換される。受容器電位は神経細胞により,活動電位の電気インパルス列となって,脳はこのインパルスの時空間パターンを味覚として解釈する。化学感覚の研究が遅れている理由は,人間の化学感覚が曖昧であるためである。なぜ曖昧であるかというと,味の様に,複数の味物質による刺激から構成される(物質問の相互作用をも含む)感覚を表現,記述する尺度を我々は持たないからである。本研究の大きな目標は「味の尺度」を作ることである。生物のように脂質膜によって構成された味センサを用いて味の定量化が可能となれば,生物の化学感覚の受容機構の解明も進むものと思われる。また,味センサは食品産業に大きく貢献するであろう。これまで食品の検査,管理は人間の味覚に頼るしかなく客観性に欠けていたが,味センサの導入によって客観的な味の評価が可能となる。今回,複数種の脂質膜を用いたマルチチャネルセンサによって味の相互作用の定量的記述を試みた。また,苦味物質が脂質膜の構造へ及ぼす効果を光学的計測によって評価したので報告する。
2.研究内容
1)味覚センサの構造及び測定系1)
トランスデューサであるマルチチャネル電極の構造は以下の通りである。電極は厚さ2mmのアクリル板に直径1.5mmのAg線を通し,裏面はAg線とそれに接続されているリード線をエポキシ系接着剤で固定したものである。脂質膜は,高分子(ポリ塩化ビニル)と可塑剤(ジオクチルフェニルフォスフォネート)と脂質を混合し膜状に成形したものを用い,これを電極表面のAg線上に貼りつけた。高分子で脂質を固定することによって電位応答の安定性を向上させ,特性の異なる複数の脂質を用いて味に関する情報量を増やした。測定系の概略は図1に示す。被測定液の入ったビーカーにマルチチャネル電極と参照電極を入れ,両者の電位差をデジタルボルトメータによりA/D変換してコンピュータに取り込み,脂質膜の界面電位の味物質による変化を測定した。
2)酸味と塩味の定量的表現と相互作用の記述
味物質を加えることによる脂質膜界面の電位変化は次のように説明される。水素イオンの様な膜面へ吸着するイオンは膜の表面電荷密度を変化させる。一方,ナトリウムイオンなどの吸着しないイオンは膜表面近傍の電気二重層に影響を与え,分極の度合が変化し,測定電位が変化する。また,苦味物質などの様な疎水基を有し脂質膜内部へ浸透する物質は膜構造を変化させ,その結果,表面電荷密度が変化し,やはり測定電位を変化させる。今回は,電解質によって呈される味である酸味と塩味を用い,これらの味の定量的表現及びこれらの味の間の相互作用の定量的表現を行った。
3)蛍光測定による脂質膜への苦味物質の吸着作用メカニズム
苦味を呈する物質である塩酸キニーネ(以下,キニーネ)と人工脂質膜との相互作用の状況を調べた。キニーネの様な疎水基を有する物質は脂質の疎水部へ侵入し膜の構造を変化させることによって膜電位を変化させると推測されてきた。今回は分光蛍光光度計(F-2000型Hitachi製)を用い,キニーネが脂質分子とどの様な相互作用をしているのかを調べた。キニーネ溶液に30分つけた脂質膜を蒸留水で洗浄した後,1mMKC1溶液に入れて適当な励起波長における蛍光強度を測定した。キニーネの脂質分子への吸着状況を調べるため,様々な長さの炭素鎖を有する脂質膜を用いた。
3.成果
1)酸味度と塩味度の定量的表現
今回用いた脂質は,2種類の脂質を混合したもので,混合比を変化させて8種類の特性を持つ脂質膜を用意した(表1)。これらの膜から構成したマルチチャネル電極を用い,酸味(酒石酸)と塩味(NaC1)について膜電位パターンの濃度依存性を調べた。測定結果を図2に示す2)。参考のため,ラットの味細胞の受容器電位も示した(図中×印)。この図より,ここで用いた膜が生体系と非常によく似た振舞いをしており,閾値なども生体系とほぼ一致していることがわかる。
ここで用いた脂質材料は,リン酸基を親水基として持つジオクチルフォスフェート(2C8POOH)とアンモニウム基を親水基として持つトリオクチルメチルアンモニウムクロライド(TOMA)である。水溶液中では2C8POOHは負に帯電し,TOMAは正に帯電する。従って,2C8POOHのみを混入した膜No.1は,酒石酸(酸味)の水素イオン,NaC1いずれにも応答する。一方,2C8POOHとTOMAを等量混入した膜No.4は水溶液中での表面電荷の和はゼロであるためナトリウムイオンには応答しないが,水素イオンには吸着性があるため膜電位を変化させる。また膜1sは,酒石酸に対しては少ししか応答せず,NaClに対しては大きく応答した。ここで得られたパターンを用いて,酸味度及び塩味度を次式で表現した。
酸味度=αlV1・V、11〆2+γ
塩味度=βIVI・(V8-V80)11!2十δ
ただし,膜No.1,4,8の電位をそれぞれVl,V、,V8とし,α,β,γ,δ,V8。は定数である。酸味度及び塩味度は,人間の感覚閾値濃度をゼロとし,飽和する濃度を6とした。閾値濃度は酒石酸では0.067mM,NaC1では9.58mM,飽和濃度は酒石酸では29.3mM,NaC1では1.26Mである。係数α,βをそれぞれ0.076,0.073[1/mV],γ,δ,V8。をそれぞれ0.049,0.78,20[mV]とおくと,官能検査による結果とよい対応がつく。図3は上式により定義された酸味度と塩味度である。どちらも対数濃度に対して直線的に変化するが,これは生物の感覚強度が刺激強度に対して対数的であることに対応する3)。図4は上式より求めた酸味度を人間の感覚と比較したものである。それぞれの値は酒石酸を基準としてある4)。図4よりこのセンサが人間の感覚をかなり再現していることがわかる。
2)酸味と塩味の相互作用
図5は膜No.1,4,8の酒石酸(酸味)とNaCl(塩味)の混合溶液に対する応答値である。膜No.1は酒石酸及びNaClの濃度が増加すると電位応答値も増加しているが,混合溶液の応答値は単にそれぞれ単独の時の応答値の和とはなっていない。図6は先の式を用いて,NaClを酒石酸溶液に加えることによる酸味度の変化と酒石酸をNaCl溶液に加えることによる塩味度の変化を計算したものである。図より,塩味を加えた場合には酸味は単独の時よりも強くなっていることがわかる。これは,人間の味覚において酸味と塩味が強調し合うという味の相互作用の結果と一致する1)。
3)苦味物質と脂質膜との相互作用
図7に蛍光スペクトルのピーク波長の脂質膜の炭素数依存性を示す。この結果から,キニーネ分子は膜表面の電荷のみに吸着するのではなく,膜内部まで入り込み,脂質の疎水性部位である炭素鎖とも相互作用していることがわかる。また,炭素数6の脂質膜の蛍光強度は他の脂質に比べて著しく小さかった。このことはキニーネ分子はある程度以上の長さを持った疎水基に吸着することを示している。
4.まとめ
味センサから得られるパターンを用いて酸味度,塩味度を記述した。これより酸味と塩味が強調し合うという味の相互作用の定量的表現が可能となった。味覚はこれまでは,あいまいな表現を用いて記述されてきた。しかしながら,味センサと官能検査を用いて「味の座標軸」を作ることができれば,例えば,ある特定の食品に対する人の評価は客観的なものとなるであろう。また,微視的なレベルでの脂質膜一味物質相互作用をより詳細に調べることは,生物における味受容メカニズムの解明につながると期待される。微視的なレベルでの相互作用については今回は苦味物質の脂質膜への吸着メカニズムを分光学的手法を用いて調べた。その結果,苦味物質は脂質膜の疎水部である炭素鎖に吸着するという従来の推測を裏付けることとなった。