2012年[ 技術開発研究助成 (開発研究) ] 成果報告 : 年報第26号

細胞内タンパク機能の無標識イメージング

研究責任者

藤田 克昌

所属:大阪大学大学院 工学研究科 精密科学・応用物理学専攻 准教授

概要

1.はじめに 光によるバイオイメージング
光は生体に優しいと言われる。その理由は、光と生体分子との相互作用の低さにある。細胞や生体組織を構成する分子は可視?近赤外域の光をあまり吸収せず、光の照射による生体の損傷は少ない。このため、光は生体を生きたまま観察するのに適し、また空間を伝搬する光の特性を利用すれば、水中にある試料やその内部構造さえも容易に観察することができる。
光と生体の相互作用とが小さいということは、生体分子自体を光で捉えることが難しいことも意味している。そのため、従来の光学顕微鏡観察では、観察対象を様々な色素により染色し、その色素と光との相互作用により観察像をつくっていた。ここで用いる色素は、生体分子とは異なり、光をよく吸収し、またその結果として発光する場合もあり、観察像のコントラストを増強する。こういった色素プローブを利用することで、観察対象の生体分子を感度良く、またその細胞内での機能を高い空間分解能で観察することが可能となった[1]。最近では、色素プローブの光学特性をうまく利用して、光の回折限界を超えた空間分解能を有する顕微鏡の開発も進んでいる[2]。
色素プローブの利用により光によるバイオイメージングの用途が大きく広がったのは間違いないが、観察している対象が色素分子であって、本来の観察対象である「生体分子」でない点には注意しておく必要がある。観察像が情報を正しく示しているかは染色の技術に依るものであり、また蛍光性タンパク等を利用しても、その発光を完全にコントロールすることは難しい。また、色素プローブによる標識が観察対象の生体分子の特性を変化させることもあり、生きた試料の観察にはさらに注意が必要である。
そこで、本研究では、生体分子を色素プローブ無しで検出し、その情報を元に観察像を形成する光学顕微鏡の開発に取り組んだ。ラマン散乱を利用することにより、生体分子の振動を光により直接検出し、ラマン散乱光強度の空間分布により、試料の観察像を形成した。開発した顕微鏡を用いて、細胞内のタンパク質、脂質の分布を無標識で可視化することに成功し、また、ミトコンドリアに存在するタンパク質 cytochrome c を検出し、そのアポトーシスにおけるダイナミクスを観察することに成功した。
2.ラマン散乱による生体分子の分光計測
ラマン散乱とは、波長変化を伴う光散乱効果の一種である。生体分子に光を入射した際、その光のエネルギーの一部が分子を振動励起状態に励起する場合がある。このとき、光はエネルギーを失うことになり、そのエネルギーの分だけ波長を変化させる。どのような振動励起状態が存在するかは分子の構造に依存するため、ラマン散乱による光の波長の変化を測定すれば、どのような分子の振動が励起されたか、すなわち検出される光を散乱した分子の構造の情報を得ることができる[3]。例として、図1に、ヒト癌細胞より測定されたラマン散乱光のスペクトルを示す。このような分析方法はラマン散乱分光法と呼ばれ、構造化学、材料科学、表面分析等、非常に広い分野で利用されている。
ラマン散乱を利用した分析技術は非常に協力であるが、その散乱効率は非常に低く、長時間の測定を要求する。そのため、構成物質が時間的、または空間的に変化する試料は、ラマン散乱分光技術が苦手とする試料であった。生きた生体試料は、そのどちらにも当てはまるため、ラマン散乱を利用した生体試料のイメージング技術は、いくつかのパイオニア的な研究[4,5,6]を除き、一般的に利用されることはあまりなかった。
3.スリット走査を利用した高速ラマン顕微鏡の開発
非常に微弱なラマン散乱光を用いて生きた細胞の観察を行うために、我々は、ラマン散乱イメージングを高速化できる顕微鏡光学系を設計し、実際に試作をおこなった。試料上の複数の点からのラマン散乱光を同時に分光計測できれば、試料上の1点1 点をひとつずつ観察する従来の手法に比べ、大幅に撮像速度を改善できるため、2 次元CCD カメラを利用し、散乱光の位置情報と分光情報を同時に取得することを考えた[7]。それを実現するため、試料のライン状のレーザー焦点により照明し、そのライン上の各点を分光器のスリット上に結像させる、スリット走査型光学系を採用し、ラマン散乱顕微鏡として構築した。
図2に開発したラマン散乱顕微鏡の光学系を示す。連続発振固体レーザー(Nd:YVO4 レーザーの2 倍波、波長532nm)からのレーザー光をシリンドリカルレンズを用いてライン状に形成し、それを試料上に結像させることで、試料の照明とした。ライン状に照明された部位からのラマン散乱光は、対物レンズ、結像レンズ、またレーザー光を取り除くエッジフィルターを通して、分光器の入射スリット上に結像された。分光器内に入射したラマン散乱光は回折格子により波長毎に角度分散を受け、2 次元検出器の各画素上に集光し、測定された。2 次元検出器には冷却CCD カメラを用いた。ライン状の照明光を一方光に走査(ガルバノメーターミラーを使用)しながらラマン散乱スペクトルを計測することにより、2 次元平面上でのラマン散乱スペクトルの分布を計測できる。また、生細胞の生理状態を保ったまま、顕微鏡観察を行うために、顕微鏡ステージ上に細胞培養用のインキュベータ(各種顕微鏡照明が利用できるよう設計した)を設置した。
4.生細胞のラマン散乱観察とタンパク機能イメージング
図3に、試作したラマン散乱顕微鏡によりヒト癌細胞(HeLa 細胞)の観察結果を示す。試料の各点から得られたラマン散乱スペクトルのうち、750、1686、および2860 cm-1 に現れるラマン散乱ピークの強度の空間分布を、ぞれぞれ、図3a、b、c に示した。観察にはNA1.2 の水浸対物レンズを用いた。750、1686、2860 cm-1 のラマン散乱ピークはそれそれ、cytochrome c のピロール環の呼吸振動、タンパク質βシートのペプチド結合の振動モード(Amide I)、CH2 の伸縮振動に帰属することができ、図3a、b、および c は、それぞれ、cytochrome c、平均的なタンパク質濃度、およびCH2 を多く含む脂質分子の濃度により主なコントラストが形成されいてると考えられる。これらの観察像より、タンパク質の分布から細胞体の形状、cytochrome c の多く存在するミトコンドリアの分布、脂質分子が蓄積した脂質小胞の分布やその局在箇所を把握することができる。これらの結果から、試作したラマン散乱顕微鏡により、生体試料内の分子の振動を利用して画像コントラストを形成し、それらの分布を高い空間分解能で観察できることが示された。
次に、HeLa 細胞に対しアポトーシスを誘導し、細胞体の破壊のトリガーとなるcytochrome c の挙動の観察を試みた [8]。まず、紫外線の照射によりDNA を損傷させたHeLa 細胞を用意し、照射してから約7 時間後にラマン散乱顕微鏡により観察した結果を図4に示す。図4a, b, およびcは、750、1686、2850 cm-1 のラマン散乱ピークの強度分布を示しており、上記と同様、それぞれ、cytochrome c、タンパク質、脂質分子の分布により主にコントラストが形成されているものと考えられる。この結果と図3の結果を比べると、cytochrome c の分布に大きな違いがあることが分かる。図3においては、cytochrome c はミトコンドリアと似た分布を示しているのに対し、図4においては、一部を除き、細胞質全体からラマン信号が得られている。この結果は、紫外光によりDNA へ損傷を受けた細胞がアポトーシスを起こす際、ミトコンドリアからcytochrome c が放出されたことを示していると考えられる。紫外線照射後の細胞は約12 時間のうちにその50%以上がアポトーシスにより死滅することを実験で確認しており、本結果がアポトーシスでのcytochrome c の空間分布の変化を観察している可能性が高い。この他、DNA の再構築に影響を与えるActinomycin D を用いてアポトーシスを誘導した際も同様の結果が得られている。図5a は、Actinomycin D を負荷させたHeLa 細胞をラマン散乱顕微鏡で観察した結果を示し、また図5b は同じ細胞のミトコンドリアをMitotracker Red で染色して得た蛍光像を示している。この二つの観察像の比較より、アポトーシスの誘導によりcytochrome c はミトコンドリアより外部に放出されている(右下の細胞)ことが確認できる。cytochrome c は酸化状態と還元状態でラマン散乱の散乱特性が大きく変化することが知られており、特に波長532nm の光の照射の場合、酸化状態においてそのラマン散乱光の強度は大きく減少する。細胞内でのcytochrome c の酸化還元状態の検出の可能性を探るため、HeLa 細胞が生きている状態、および固定して過酸化水素水を付加した状態でラマン観察を行った [8]。その結果を図6に示す。これらの図より、過酸化水素水の付加によりcytochrome c からのラマン散乱光が著しく低下していることが分かる。過酸化水素水は強い酸化剤として作用するため、cytochrome cが酸化したことによりラマン散乱効率が低下した様子が観察されたと考えられる。この結果では、細胞内においても、cytochrome c の酸化還元状態によりラマン散乱光の強度が大きく影響を受けることが示唆されており、ラマン散乱分光を用いた細胞およびミトコンドリア代謝の分析する新しい生体計測法の可能が示されている。
5.まとめ
本研究では、生細胞の観察に適したラマン散乱顕微鏡を試作した。生細胞観察における結像特性を把握したのち、アポトーシスにおけるcytochrome c の空間分布の変化を観察することに成功した。これは、無標識でタンパク質シグナリングの様子を捉えた初めての例である。無標識での観察はより自然に近い状態での試料の様子の追跡を可能とするため、より詳細に生体情報を計測できる新しい手法を実現できる。また、光学的にタンパク質の酸化還元状態を把握しながら、その空間分布を観察できる可能性も示唆させた。これらの成果により、分子の振動を用いることにより、従来の手法では計測が不可能であった細胞内分子の情報の取得が可能であることが示された。