1994年[ 技術開発研究助成 ] 成果報告 : 年報第08号

瞳孔筋系の逆モデルに基づく無重力環境下の自律神経活動推定に関する研究

研究責任者

臼井 支朗

所属:豊橋技術科学大学 工学部 情報工学科 教授

共同研究者

神山 斉己

所属:豊橋技術科学大学 知識情報工学系 助手

共同研究者

平田 豊

所属:豊橋技術科学大学  大学院生

共同研究者

長岡 俊治

所属:宇宙開発事業団 主任研究員

概要

1.目的
今世紀の科学技術の発展は,人類が宇宙空間という極めて特殊な環境へ進出することを可能にした。しかしながら,地球の重力環境の下で進化し発展を遂げた人類が,そうした特殊環境下に滞在し,生命活動を維持するためには,解決しなければならない多くの課題が残されている。中でも,微小重力環境によって引き起こされる生理的問題は未解決な部分が多く,人間の持つ恒常性(homeostasis)がそうした環境下でどのように機能するかが宇宙医学研究の焦点となっている。人間の恒常性の中核を担うのは自律神経系である。人間が生命活動を維持していく上で欠くことのできない,呼吸,消化,代謝,分泌,体温等の調節は自律神経系により無意識のうちに制御されている。したがって,重力環境の変化に伴うそうした自律神経系活動の観測,解析は,恒常性を含めた生体機能に関する様々な性質,およびそのメカニズム解明へつながることが期待される。
本研究では,航空機による微小重力実験により重力変化の自律神経系活動に及ぼす影響を調べ,宇宙医学の発展に寄与することを目的とする。そのためには,自律神経系活動を何等かの方法で評価する必要がある。しかし,現在のところ,自律神経系活動を直接観測することは極めて困難であり,血圧,心拍数体温等その支配下にある器官の活動から間接的に観測されている。瞳孔もまた,そうした自律神経系に支配される器官の1つであり,その動きから自律神経系の活動を推定しようとする多くの試みが,主に臨床の分野でなされてきた。特に,赤外線TV瞳孔計の発達により,瞳孔反応は外部から容易に観測でき,新しい自律神経系活動の指標としての期待も大きい。しかし,従来の瞳孔計は大型で備え付け型のものであり,航空機実験のように振動が激しく,作業空間が非常に狭い環境においては実用的でない。こうした実験環境において信頼性の高いデータを得るには頭部に備え付けられるような携帯用超小型瞳孔計が必要となる。したがって,超小型瞳孔計の開発,実用化を計ることが本研究の第一目的となる。
さて,通常,間接的な方法により得られる自律神経系活動に関するデータは,その器官固有の特性を反映したものであり,自律神経系そのものの活動が直接得られるわけではない。従って,自律神経系本来の活動を詳細に調べるためには,器官固有の特牲と自律神経系の特性を分離する手法が必要である。我々はこれまで自律神経入力に対して瞳孔径の変化を出力する,瞳孔筋系の非線形動力学モデルを構築し,その有効性を示してきた[1]。したがって,こうしたモデルを逆モデルと捉えることにより,計測データ(瞳孔反応)から瞳孔固有の特性を除去した,純粋な自律神経系活動を推定できる可能性がある。本研究はこうした生理工学的アプローチにより,重力変化に対する自律神経系活動の本質的性質の解明を目指すものである。
2.研究の内容および成果
2.1航空機のパラボリックフライトにおける瞳孔光反射応答の計測
小型ジェット機による無重力環境は,いわゆる放物線飛行によって作り出される。すなわち,高度5000~6000mまで急上昇した後,推力を下げ,ボールを放り投げるように,高度1000~2000m程度まで機体を自由落下させることによって人工的に作り出す環境である。実験飛行は,ダイヤモンドエアーサービス社の小型リアジェットMU300を用いて行った。被験者は20代の健康な男子1名とし,3日間に渡り1日約10回,合計27回のパラボリックフライトを行った。飛行プロファイルは,微小重力状態に入る前の過重力が2.3Gになるものと,1.3Gに抑えられたものの2通りである。(図1)
こうした,航空機による微小重力実験に向け,まず,超小型瞳孔計の改良を行なった。最大の問題は,1→2→0→2→1という急激なG変化に対する安全な瞳孔計装着法の確立にあった。これに対し,浜松ホトニクスで最近開発された頭部にマウント可能な超小型瞳孔計をカーレーサ用のヘルメットに取り付け,一体化することにより,装着法の問題を解決した。
開発した瞳孔計により,ほとんど全てのパラボリック飛行において安定した瞳孔反応が記録できた。バラボリックフライト中にこうした瞳孔光反射応答の計測に成功したのはこれが世界ではじめてである。図2に弾道飛行中の重力変化(点線)に対する瞳孔直径(実線)の計測例を示す。重力変化に伴い瞳孔応答に明らかな変化が見られ,重力変化に対する自律神経系活動の変化が瞳孔応答に反映されているものと考えられる。
瞳孔応答のどのような特微量に最も重力変化の影響が反映されるかを調べるため,各光刺激に対する応答から特徴パラメータ(初期瞳孔径,縮瞳量,反応遅れ時間,最大縮瞳速度,最大散瞳速度)を抽出し,重力変化との関係を調べた。その結果,重力変化時に全ての特徴パラメータに明確な変動が見られ,重力変化に対する自律神経系活動の変化がこうした瞳孔応答のパラメータに反映されていることが示唆された[2]。
2.2瞳孔筋系の逆モデルによる自律神経系活動の推定
我々はこれまで,瞳孔の反応が自律神経系の活動をどのように反映するかを調べるため,自律神経系活動の特徴的性質の一つである日内変動(circadian rhythm:自律神経系の約24時間周期の活動変化)が瞳孔反応に現れるか否かを,血圧等,他の指標との相関解析により検討した。その結果,瞳孔フラッシュ応答のいくつかの動的パラメータは従来の自律神経系指標の活動と高い相関を持ち,明確な日内変動を示すことを明らかにした[3]。特に,瞳孔反応のパラメータは,従来の指標に比べ,著しく安定していることも明らかになった。
また,こうした実験結果を解析するため,従来の生理学や解剖学的知見から,虹彩の構造や瞳孔を制御する筋特性を盛り込んだ瞳孔筋系の新しい動力学モデルを構築した(図3[1])。このモデルは動特牲を含め瞳孔系の非線形性を反映する様々な特性を表現することができ,瞳孔の本質的性質を抽出しているモデルと考えられる。しがって,こうした瞳孔モデルの逆モデルを導出できれば,実験的に記録した瞳孔反応から自律神経系活動を推定することができる。以下では,そうした逆モデルによる自律神経系活動の推定法について述べ,その適用例として,ステップ応答実験で得られたデータから自律神経入力の推定を行ない,推定結果が動物実験の結果と定性的に一致することを示す。
2.2.1瞳孔筋系の逆モデル[4]
腕の関節角と同様,瞳孔径のように2種の拮抗筋の活動により運動のきまる系では,各々の筋に発生する張力の差が同じであれば同一の運動が起こる。すなわち,同一の運動を生成する2種の筋張力には種々の組合せが存在する。したがって,ある運動から各筋に発生した張力を求める逆問題の解は,一般に,一意に定まらない。しかし,瞳孔筋系の場合,(1)縮瞳筋と散瞳筋へ入力する交感神経と副交感神経活動は相反的な活動を示す,(2)両筋のむだ時間が異なる,という2つの性質により,瞳孔径の変化から各筋の張力が一意に求まり,筋を駆動する神経入力を推定することができる。
実際に逆モデルにより瞳孔応答から自律神経入力を推定できることを確認するため,順モデルに指数関数状(Ae-B1)に変化する自律神経入力を与え,その時の出力(瞳孔応答)に観測雑音として擬似正規白色雑音を付加し,これをテストデータとして逆モデルにより入力波形を推定した。図4ヒ段左がテストデータであり,右(a)がそのパワースペクトルである。ここで,雑音のパワーレベルは後で扱う実験データとほぼ同様の-70dB程度となるように分散(10-5mm2)を設定した。図には5sec間の応答のみを示したが,パワースペクトルは応答が充分に整定する時間(34.13sec,データ点数4096)のデータからFFTにより求めた。下段右の(d)はこの応答から推定された入力のパワースペクトルであり,高域成分が真値((e))からずれ9大きく持ち上げられていることがわかる。これは入力推定過程に最高4階の微分操作が含まれるために高域の雑音成分が強調されたものである。こうした観測雑音による入力推定精度の悪化を防ぐには,まず,同一条件で測定したデータの加算平均処理が挙げられる。しかし,実験によっては加算のための充分な標本数が得られない場合もあり,そうした場合にはフィルタリングにより重畳した雑音の高域成分を除去することが考えられる。同図下段左は上段右(b)のような特性のローパスフィルタをかけ,(c)のように高域の雑音成分を除去した応答波形から推定した結果(実線)と真値(点線)である。これより,真値と比べ推定結果のピーク付近はフィルタリングの影響で多少鈍るが(フィルタリング後の推定結果のパワースペクトルは(f)),その特徴は充分に再現されていることがわかる。以上の結果から,瞳孔応答に観測雑音が重畳した場合にも,加算平均やフィルタリングにより予め雑音の高域成分を充分に低減することにより,多少高域の情報は失われるが,瞳孔応答から自律神経入力を良好に推定できることがわかる。
図5上段に暗川頁応状態で計測した種々の光強度におけるステップ応答を示す。ここで,各応答は同一条件で測定した20回の応答の平均である。同図下段にこれら各光強度のステップ応答から,逆モデルにより推定した自律神経入力(縮瞳筋への副交感神経入力興(t))を示す。逆推定の際には,図4(b)と同一特性のローパスフィルタによりステップ応答波形に重畳した雑音の高域成分を除去した。よって,推定結果の高域の情報は失われているが,光強度の違いにより,神経活動レベルの時間変化に特徴的な差異を見い出すことができる。すなわち,光強度が強い場合には持続的な活動レベルの増加が見られ,強度が弱い場合には一過性の信号となっている。こうした結果は,ステップ光照射時に瞳孔筋系へ入力される自律神経系活動を測定した動物実験の結果と定性的に一致する。図6(a)[6]は暗順応状態のウサギに種々の強度のステップ光を照射し,そのときの縮瞳筋へ入力される短毛様体神経(副交感神経)のスパイク発生頻度(モデルへの入力である神経活動レベルに比例した量)の時間変化を示したものである。図中,各波形の上の数値は刺激光強度の対数値である。
この図においても光強度が弱い場合には一過性の変化となり,強度が増すにつれ持続性の変化に移行していくことがわかる。また,各応答特性は図4で用いたような神経入九4θ一B1でほぼ近似できるものとすれば,光強度の増加に伴い,Aは大きく,Bは小さくなる傾向にあるといえる。より詳しく比較するために,(a)に合わせて図5下段の推定結果を各光強度に1.5秒ずつ表示したものを同図(b)に示す。(b)における各波形も,図4におけるフィルタリング後の推定結果と類似していることから,・4グβ'なる特性でほぼ近似できるものとすれば,光強度の増加に伴いAとBは(a)と同様の傾向を示していることがわかる。また,これと同様の動物実験から,光強度の対数と定常状態における神経活動レベル(刺激後0.4~1.4secのパルス発生頻度の平均値を定常状態の値としている)の関係がMichaelis-Mentenの式で表せることが示されている[5〕。図5下段の推定結果の0.4~1.4sec間の平均値を各光強度毎にプロットしたものを図7に示す。これより,推定結果から得られる光強度と神経活動レベルの関係も点線で示したMichaelis-Mentenの特性で良好に近似できることがわかる(ヒトを対象とした場合,図5上段における0Logの強度がほぼ限界であり,光強度がさらに強い場合の推定値を示すことは困難である)。以上の結果から,逆モデルによる図5下段の推定結果の妥当性が裏付けられる。したがって,こうした逆モデルを用いることにより,観測の容易な瞳孔応答から瞳孔筋系固有の特性を除去した純粋な自律神経系活動を推定することが可能となり,新たな非侵襲的自律神経系活動のモニタとして医療への応用も考えられる。今後,図2に示した航空機によるパラボリックフライト中の瞳孔光反射応答データにこうした手法を適用することによって,微小重力あるいは重力変化に伴う自律神経系活動の変化を詳しく調べる予定であり,宇宙医学への貢献が期待される。
3まとめ
本研究では,重力変化に伴う自律神経系活動の変化を調べることを目的に,瞳孔を自律神経系活動のモニタとして捉え,航空機によるパラボリックフライト中に瞳孔光反射応答の計測を試みた。そのために,まず,頭部に装着可能なヘルメットー体型の携帯用超小型瞳孔計を開発した。この瞳孔計により,パラボリックフライトにおいて非常に安定した瞳孔応答の計測に世界で初めて成功した。
さらに,本研究では,こうしたパラボリックフライト中の瞳孔応答から瞳孔筋系の非線形な特性を除去した純粋な自律神経系活動を評価するために,瞳孔筋系の逆モデルによる自律神経活動推定法を提案した。この方法は,巧妙な生体制御の典型とも云える瞳孔制御のメカニズムを解明する上でも,中枢からの制御信号の評価を可能とするものであり,重要な鍵となるものと考えられる。また,今回実用化に成功した超小型瞳孔計により,これまで静止状態でしか行なえなかった瞳孔反応の測定が,被験者や測定系が動的に動く場合にも適用できるようになり,眼科・視覚生理といった医学の領域のみならず,生体制御,中枢機能の研究,あるいは"心の窓"として瞳孔の振る舞いに注目する心理学の分野においても大きく貢献できるものと考えられる。