1989年[ 技術開発研究助成 ] 成果報告 : 年報第03号

生体内における筋活動のX線回折法による計測技術の開発

研究責任者

八木 直人

所属:東北大学 医学部 第一薬理 助手

共同研究者

松原 一郎

所属:東北大学 医学部  助教授

概要

まえがき
生体内部の状態を,非破壊的に外部から観測する手法ご開発することは,医学においても生体を研究するにあっても重要な課題である。X線はレントゲンによる発見ス来,その高い物質透過性ゆえに,物質内を非破壊的に昆察する手法として使われている。工業的には,例えば工場などで材料の均一性を調べるのに用いられれおり,また生体を対象とした場合には,レントゲン検査が同様の応用例である。これらの応用では,X線の吸収の差によって物質内または生体内を観察している。これに対して,例えばシリコンの単結晶の材質を検査するのに用いられるのが,X線回折法である。この手法はこれまで生体を対象としては余り用いられていないが,原理的にはレントゲン検査と同様の応用が考えられるものであり,分子レベルの分解能が得られるという特長がある。
2.内容
2.1.計測の原理
回折は波動と物質との相互作用によって生じる現象である。回折が最も顕著に現れるのは,物質が規則的に並んでいる場合である(図1)。回折が観測されるためには,波動の波長と物質の配列の周期が同程度である事が必要であり,X線の波長は0.1nm程度であるから,X線回折法はnmのオーダーの大きさの物質を観察するのに適している。例えばシリコン単結晶では原子間隔が0.1nm程度であるため,X線の回折が生じ,その方向や強度から結晶内での原子の並び方などを検査できる。蛋白質等の結晶にもX線回折法は用いられており,nm以下の分解能で分子構造などが決定されている。このように,レントゲン写真がミクロン程度までの分解能を持つのに対して,X線回折法はnmレベルの,つまり分子のレベルでの生体の構造を検査する手段であるといえる。
レントゲン検査と同様に,X線回折法でも異なる組織がX線の通り道に存在すると,生じた回折がどの組織によって生じたものかの判別が困難になる。また,強い回折を得るには周期構造があったほうがよい。これらの条件に最もかなう生体組織は骨格筋である1)。生体を対象としていても,骨格筋だけにX線を照射するのは容易であるし,骨格筋は筋フィラメントという分子レベルでの周期構造を持っているため,強い回折が得られる。
2.2.骨格筋への応用
骨格筋には2種類の筋フィラメント,太いフィラメントと細いフィラメントがあり,これらは六方格子状に配列している(図2)。X線はこの格子によって筋線維の長軸と直角の方向に回折される。この回折は赤道反射と呼ばれ,最も回折角の小さいものを(1,0)反射,次に小さいものを(1,1)反射と呼ぶ。X線の回折の方向は,赤道反射の位置を計測することによって知ることができ,それによって筋細胞内での筋フィラメントの間隔を知ることができる。また,赤道反射の強度を測定することにより,張力発生の分子機構であると考えられているミオシン分子とアクチン分子の相互作用を定量することが可能である。このほかにも,赤道反射よりやや強度は低いが,筋線維の方向に生じる回折もあり(子午反射),これは筋フィラメントの内部構造に由来する。
2.3.測定装置測定
装置の概略を図3に示す。X線源として,超高輝度回転対陰極型X線発生装置(理学電機,FR)に,当研究室で設計したモノクロメータ型カメラ(ギニエカメラ)を組み合わせて用いている。試料にはトノサマガエルのふくらはぎの筋肉(腓腹筋)を用いる。回折バターンは,一次元位置敏感型X線検出器(PSPC,当研究室で作成した三角カソード型,または理学電機社製ディレイライン型)で記録する。現在二次元X線検出器の利用も検討している。PSPCで計測された回折パターンは,RS232Cシリアルポートを経由してエンジニアリングワークステーション(EWS,ソニーNEWS-820)へ転送される。
筋電計はヘッドアンプと,A/Dコンバータボートを装着した・・一ソナルコンピュータ(SORDM-343)からなる。また,このパーソナルコンピュータは張力測定にも用いられる。張力はカエルの下肢に結び付けられたストレインゲージ型トランスデューサとキャリアアンプで測定され,パーソナルコンピュータのA/Dコンバータボードに入力される。パーソナルコンピュータで計測されたデータは,RS-232Cシリアルポートを経由してEWSに転送する。
EWSは大容量の磁気ディスクと高分解能グラフィックディスプレイを持ち,PSPC,筋電計,張力測定器から転送された大量の測定データを解析する目的に用いている。
3.成果
図4は生きたカエルの腓腹筋から得られた赤道反射で,X線フィルムに記録したものである。二つの主な回折ピーク,(1,0)反射と(1,1)反射が認められる。これをPSPCを用いて記録し,EWSのディスプイレイ上に表示したのが図5である。PSPCはX線をフォトン単位で計測するためフィルムに比べて感度が高く,露出時間は1/10程度に短縮される。カエルの足首から先の角度を変化させて(1,0)反射の位置を測定すると,足首の角度によって格子間隔が33~39nmの範囲で変化することがわかる。この実験のように筋長を変化させた時には筋の体積は一定に保たれる事が知られているので2),この結果はサルコメア長が2.0~2.7,umの範囲で変化していることを意味している。また,子午反射の記録にも成功している。
このように,X線回折法は生体内での筋細胞についての分子レベルでの情報を与える。従って例えば,塩分の摂取量など動物の食餌の内容を変えて筋細胞の体積変化を調べる,筋ジストロフィーの進行状況を追う,筋運動による疲労時の筋細胞の体積変化や分子構造変化を調べる,などの応用が考えられる。
現在,筋を神経刺激により収縮させた場合の回折強度変化を計測している。回折パターン記録のために,多くの収縮を起こさなければならず,そのため神経刺激の方法を工夫している。
4.将来の展望
X線回折法は試料を生理的な状態に置いたままで観察可能なため,筋収縮時の分子構造変換の研究にも用いられてきている。この種の実験は,従来は切り出してリンゲル液に浸したカエルの骨格筋を用いて行われており,シンクロトロン放射による強力なX線3}を用いれば,電気刺激による収縮中のX線回折像を,数ミリセカンドの時間分解能で測定することができる4)これに対し生体内での筋肉の活動状態を調べる場合には,神経を電気的に刺激するか,自発的な筋収縮に伴って回折像を記録することになる、この時に発生張力や筋電図等を同時に測定しておけば,筋肉の活動状態とX線回折像で見た分子構造変化とをよく対応づけられる。切り出された標本における実験では,赤道反射の(1,0)反射の強度は収縮中には弛緩時の約半分に低下する5)が,はたして生体内に於ける筋収縮においてもそのような大きな分一子構造変化か生じるのかどうか興味あるところである。
X線回折法を生体に直接に応用した例はまだ少なく,筋肉を対象とした研究も,まだ始まったばかりである。筋肉以外の組織では,カエルの網膜で例がある6)他は,同様の研究は皆無と言ってよい。その理由の一つは,生体組織による回折はシリコンなどの無機物の結晶に比べると遙かに弱く,生体を良い条件に置いたままで測定を行うことが困難だったことにある。しかしシンクロトロン放射光という従来では考えられなかった強いX線源が利用可能になった現在,X線回折法の生体への応用の可能性は広がっている。