2016年[ 科学教育振興助成 ] 成果報告

最終氷期以降の古環境復元の試み

実施担当者

森野 泰行

所属:滋賀県立米原高等学校 教諭

概要

1 はじめに
 琵琶湖周辺における最終氷期の古環境復元に関する研究は、その多くが琵琶湖の湖底および琵琶湖周辺の内湖と一部の湿原など、比較的標高の低い地域が調査対象とされてきた(高原 1993など)。標高の高い山稜部での調査は比良山系で行われているものの(山口ほか 1983)、最終氷期に相当する層準まで調査が至っておらず、山稜部を含めた琵琶湖周辺の最終氷期から現在にいたる古環境復元はできていない。
 私たち米原高校地学部では、最終氷期の示標火山灰である姶良Tn火山灰(以後、「AT」とする)の発見をきっかけとして、とくに山稜部における古環境復元を目的として、同火山灰の降灰層準を検出することに努め、その前後の地層から花粉化石を抽出することで当時の植生環境を求めてきた。その結果、最終氷期の米原市付近の植生の垂直分布と平野部の最寒月平均気温を求めることができた(米原高校地学部2016)。
 さらに今年度は、露頭における森林士壌の採取やシン・ウォール・サンプラーによる山稜部の湖沼堆積物の採取を行い、これまでの花粉化石の分析に微粒炭粒子の含有量調査を加え、最終氷期から現在までの植生環境の変化の解析を試みた。本稿では、琵琶湖北~東部の山稜部の最終氷期から現在にいたる植生
環境の変遷とそれにまつわる新知見について報告する。


2 河岸段丘上の森林土壌分析
 降灰した火山灰や風成の花粉化石が流失する可能性が低い地形として、平坦面で構成される河岸段丘に着目し、火山灰の降灰層準の確認とあわせて花粉化石の分析を試みた。
 長浜市古橋で採取した森林士壌では、表層20~25cm、50~55cmから火山ガラス密集層が確認され、このうち上位の火山ガラスはその屈折率から鬼界アカホヤ火山灰に由来するものと姶良Tn火山灰(AT)に由来するものとが混在することがわかった。よって火山灰の降灰層準とは考えにくいと判断した。下位の火山ガラス密集層はその形状・屈折率から姶良Tn火山灰(AT)降灰層準であるという結果を得た。また、表層から95~100cmでは火山ガラスが密集していなかったが、火山ガラスの形状・屈折率およびβ石英(高温型石英)が検出されることから鬼界葛原火山灰(K-Tz)の降灰層準であることを確認した。
 以上の結呆から、最終氷期以降の時代層準は確認できたが、花粉化石がほとんど検出されず、古環境復元には至らなかった。


3. 霊仙山お虎ヶ池堆積物の分析
3-1 火山灰層
 お虎が池のボーリング試料(シンウォールサンプラー)の深度58cmの火山灰は火山ガラスの形状、屈折率、重鉱物組成から縄文時代後期に噴出した三瓶大平山火山灰(S-Oh)に対比される可能性があると判断した。島根県の三瓶山を給源とし、愛知県で分布が報告されている(森ほか 1990)。また、深度67cmの火山灰は同定できなかった。火山ガラスや重鉱物が多量に含まれることから、広域火山灰に対比される可能性がある。

3-2 放射性炭素法による年代測定
 お虎が池のボーリング試料中の下位の火山灰層直上(深度62~66cm)と最も多くの植物遺体を含む泥炭層(深度40cm)について、放射性炭素による年代を調べた。その結果は以下の通りとなった。なお、年代は暦年に較正して表記した。

(1)深さ62~66cmの火山灰層直上の粘士層が堆積した年代(時代)は、暦年較正値が3566calBC~3536calBC、3646calBC~3626calBCであることから、縄文時代後期となる。

(2)深さ40cmの植物遺体を多く含む泥炭層の堆積した年代(時代)は、暦年較正値が1650calAD~1633calAD、1592calAD~1521calADであることから、室町時代末期~江戸時代初期となる。

(注:図/PDFに記載)

3-3 花粉化石
 深さ58cmの不整合面よりも下位層にはほとんど花粉化石が見られなかったのに対し、不整合面の上位層からは、花粉化石が多数検出された。深さ58~71cmの地層が堆積した時代は、縄文時代中~後期に相当し、マツ属が顕著であるとともにコナラ属が見られることから、中部から近畿地方の亜高山帯と同様に針葉樹と広葉樹による針広混交林が広がっていたと考えられる。
 室町時代末期~江戸時代初期に相当する深さ58cmの不整合面よりも上位層が堆積した時代には、イネ科の増加からやや遅れてマツ属が増加するというサイクルが3回見られた(図4)。とくに深さ40~41cmの層からは、人が栽培しないと自生しないソバの花粉も検出され、お虎が池周辺は、人為的な活動が行われており、里山のような環境であったことが考えられる。また、地表付近の地層からは第二次世界大戦後に大量に植えられたスギ属の花粉化石が多く見られた。

3-4 微粒炭化石
 深さ58cmの不整合面の下位層には、細い草本類の葉か茎の一部のような微粒炭がごく微量に含まれていたのみで、木本類が燃焼した際に生じる微粒炭は全くなく見られなかった。
 これに対して深さ58cmの不整合面の上位層からは植物遺体を含む木本類を由来とする微粒炭が多く検出され、人為的な活動が頻繁に行われていたと考えられる。

(注:図/PDFに記載)


4. まとめ
(1)最終氷期の古環境復元
 森林土壌の分析により最終氷期以降の大まかな時代層準を確定することができた。しかし、花粉化石の産出量が極めて少なく、古環境の復元にはいたらなかった。

(2)霊仙山山頂付近の縄文時代中~後期の古環境復元
 縄文時代中~後期の層準からは木本類の微粒炭粒子がみられないことから、この時代には森林を燃焼させる人為的な行為はなかったことがうかがえる。花粉化石の分析(図4)により、中部~近畿地方の亜高山帯と同様にコナラ属が多くみられ、マツ属が顕著であることから、針葉樹と落葉広葉樹による針広混交林が形成されていたと推測され、最終氷期に標高300m付近にあった針葉樹林帯と針広混交林帯の境界は(米原高校地学部 2016)、950m以上に上昇していたことになる。

(3)霊仙山山頂付近の中世末期以降の古環境復元について
 お虎が池の試料からは比較的大規模な植生の燃焼が3回あったことが確認でき(図4)、人為的な植生の燃焼→イネ科の繁茂→パイオニアプランツであるマツ属の増加といった傾向がみられた。少最ではあるが、一部でソバ科花粉が検出されたことから、人為的な植生の燃焼は焼畑が目的であった可能性がある。また、中世末期以降、ヨモギ属が相対的に減少するのと同時にイネ科が増加傾向にあるのは、刈敷の普及にともなうイネ科植物の利用や家畜飼料などに利用することを目的に萱場として保全されてきた可能性を示している。いずれにせよ、霊仙山は中世末期には、山頂付近まで里山として利用されていたことになり、現在のような霊仙山山頂付近の疎林状態は、中世末期以降の人為的な植生利用に由来するものと考えられる。