2017年[ 技術交流助成 (海外派遣) ] 成果報告 : 年報30号補刷

平成27年度 技術交流助成成果報告(海外研修)・磯村 拓哉

研究責任者

磯村 拓哉

所属:東京大学大学院 新領域創成科学研究科 人間環境学専攻

概要

研修先名称 University College London
研修地 London, United Kingdom
期間 2016 年 4 月 2 日~2016 年 6 月 2 日

1)研修中に実施した研究テーマ
自然現象を数理的に説明する試みはこの数世紀の間大きな成功を収めてきました。一方で、人の知能を数理的に説明可能かは未だ良く分かっていません。19 世紀の物理/生理学者 Hermann von
Helmholtz は、“人は常に知覚入力のダイナミクスを予測し、背後にある原因を推論している”と考え、この仮説を無意識的推論と名付けました。Helmholtz の仮説は、脳高次機能の機能的側面を“推論”のモデルとして統一的に説明することを可能にしましたが、実際の神経回路網がどのように無意識的推論を実装しているかは未だ分かっていません。さらに、複数の人がお互いにコミュニケーションを取り合う様な複雑な状況においても、脳の高次機能を無意識的推論のモデルで説明可能かどうかはこれまで議論されてきませんでした。
複数の人が存在する状況は、社会的相互作用の障害の神経メカニズムを考える上で重要です。神経科学においては、かねてより精神障害のメカニズム解明が望まれており、近年では、精神障害の数理モデルが数多く提案されています。しかし現在、鬱病や統合失調症、自閉症による社会性相互作用の障害は特に理解が遅れている症状であり、神経回路網のレベルにおける障害の発生メカニズムは良く分かっていません。
そこで本研究では、社会的相互作用における無意識的推論の神経メカニズムを説明し、それを計算機上で再現可能な、生物学的に妥当な新しい機械学習モデルを構築します。さらに、提案モデルのパラメータを調節することで精神障害のモデルとして利用できることを示し、新たな早期診断方法の開発への応用可能性について議論します。

2)研修期間中の研究成果
【Songbird の相互作用の数理モデルの解析】
共同研究者の Karl J Friston は近年、脳の高次機能を説明する統一理論である自由エネルギー原理を提唱しました。自由エネルギー原理は、脳を構成する神経活動の変化、神経細胞間のシナプス結合の変 化、および神経修飾物質の濃度変化は全て自由エネルギーを最小化させる様に変化するとする原理です。自由エネルギーが最小化されたとき、脳は外界の生成モデルを脳内に再構築し、外界のダイナミクスを 推論することが可能となります。つまり、自由エネルギー原理は、無意識的推論を数理的に表現するた めの目的関数になっています。
本研究では簡単のため、人の代わりに songbird の相互作用を考えました。Songbird は他の songbird の歌を真似することで歌い方を学習することが知られています。Friston は 2 羽の鳥の脳内状態が学習の結果 1 つの共通な状態に収束した場合、原理的には、2 羽の鳥はお互いの歌の続きを予測可能になり、従って、予測誤差(自由エネルギー)を最小化できると考えました。我々はまず、複数の鳥が共通の 1
つの歌を歌っている場合は、この数理モデルは鳥の数が 3 羽以上の場合でも相互作用を上手く説明できることを確認しました。
しかし、鳥 A と鳥 B がそれぞれ異なる歌を交互に歌い、鳥 C が歌を学習する状況を考えた場合、従来の数理モデルでは鳥 C はどちらの歌も学習することができませんでした。これは、鳥 C の脳内に 1 つの外界のモデルしか仮定していないためです。そこで我々は、鳥 C が脳内に複数の外界のモデルを有する様にモデルを拡張しました。そして、複数のモデルによる推論を同時に実行し、その中で最も予測精度が高いモデルのパラメータのみを最適化するという学習アルゴリズムを提案しました。提案モデルの性能を評価するためシミュレーションを行ったところ、鳥 A が歌うときにはモデル 1 の、鳥 B が歌うときはモデル 2 の最適化が行われ、その結果、2 つの歌を別々に学習できることを発見しました。

【精神医学モデルへの応用】
さらに、シミュレーションパラメータの設定を変更すると推論できなくなることも分かりました。計算論的精神医学の分野においては、数理モデルのパラメータを変化させることで、病変モデルの作成が行われています。そのため提案モデルが推論を失敗するパラメータ条件を調べることで、社会的相互作用の障害の神経メカニズムの理解に繋がると考えられます。他者の脳内モデルを推論しコピーする能力は、人が他者の思考・精神状態・感情を推論し理解するために不可欠です。提案モデルは、精神障害の中でも特に理解が遅れている社会性相互作用の障害の、神経回路網レベルの発生メカニズムを説明する初めてのモデルになると期待されます。
実験では、具体例として、提案モデルが自閉症の診断方法の 1 つである自分の思考と他者の思考を区別し推論できるかを問う課題(サリーとアン問題)を解決できるかを調べました。シミュレーションの結果、既存モデルは常に自分と他者の思考を区別できませんが、提案モデルは自他の区別が可能であること、さらにパラメータに変化を加えると、今までできていた他者の思考の推論ができなくなることが分かりました。
さらに、脳計測結果をこのモデルに当てはめパラメータ推定することで、新たな早期診断法を構築できると考えられます。機能的核磁気共鳴画像法(functional magnetic resonance imaging; fMRI)や脳磁図(magnetoencephalography; MEG)の解析手法に dynamic causal modeling(DCM)という手法が有ります。DCM では脳の部位間の結合をモデル化し、計測データから計測できない隠れた活動を統計推定することが可能です。つまり DCM により、精神障害に関連する脳領域とそれらの間の結合構造を推定することができます。しかし従来の DCM では、精神障害患者がどのように外界を認識しているかまでは分かりませんでした。我々が構築した無意識的推論の数理モデルを用いると、患者の脳が外界を推論するモデルをコンピュータ内に再構築することで、脳計測データから、患者が外界をどのように認識しているのかを推定できる様になると考えられます。さらに、外界の認識の仕方を健常者と患者で比較することで、精神障害が認知機能に及ぼす影響を定量的に評価可能になると思われます。提案モデルは、社会的相互作用の障害の神経メカニズムを、“推論能力の異常”として統一的な説明を可能にし、早期診断方法、治療方法の確立に繋がると期待されます。これは、患者の生活の質(Quality of Life) 向上に直結する点において,社会的インパクトは非常に大きいと考えられます。

3)その他
現在、本成果をまとめた学術論文を執筆中であり、近日中に国際誌に投稿する予定です。また本成果を基盤として、さらなる無意識的推論の数理モデルの拡張を行うため、来年度にも再び Friston の下を訪れ継続的に共同研究を行う予定です。
末筆ながら、今回の海外研修の実施にあたり多大なるご協力をいただきました公益財団法人 中谷医工計測技術振興財団の理事の方々ならびに財団事務局を初めとする関係者の方々に深く御礼を申し上げます。