1990年[ 技術開発研究助成 ] 成果報告 : 年報第04号

左室伝達関数に基づく開心術中の心筋保護効果監視装置の開発

研究責任者

滝島 任

所属:東北大学 医学部 第一内科 教授

共同研究者

小岩 喜郎

所属:東北大学 医学部  講師

共同研究者

手塚 文明

所属:東北大学医学部付属病院  教授

共同研究者

谷 順二

所属:東北大学 高速力学研究所  教授

共同研究者

大山 匡

所属:東北大学 医学部  助手

概要

1.まえがき
近年,各種心臓疾患に対する外科的治療が盛んに行われるようになっており,特に虚血性心疾患の増加に伴った冠動脈バイパス術の件数は著しい増加をみせている。これらは,心臓外科手術の技術的向上もさることながら,術中に心筋保護法を併用することにより心停止が安全に行いうるようになったためであろう。現在までの臨床的経験によれば,低温による心筋冷却ならびに心筋保護液の併用により,約4時間程度であれば不可逆的な心筋の変性を惹起することなく心停止を行ない得るとされている。しかしながら,血流遮断が4時間をこえるような手術の場合には,不可逆的な心筋の変性が生ずる可能性があり,どの時点よりこの心筋変性を生ずるかを術中にリアルタイムでモニターする方法が求められてきた。この目的のために,心筋ATPやpHを測定する方法が考案されてきたが,いずれも変性の時点を明確にできなかったり,あるいは,測定に必要な心筋量が多すぎるといった問題があり,現在までに実用化された方法はない。われわれは振動論的手法により心筋の粘弾性特性を測定する方法(伝達関数法)1)2)3)を開発してきたが,今回の研究ではこの方法を停止心に応用し,心筋の不可逆的変1生の時点をモニターする方法を考案したので報告する。
2.研究内容
1)伝達関数の測定原理
図1に伝達関数の測定方法を示す。左心室に心外膜側より振幅一定の正弦波振動を加えると,対側の心表面上で検出した出力振動の振幅は入力周波数によって異なり,ある特定の入力周波数(共振周波数)で最大となる。この現象は左心室が外部より与えられた振動に対して共振現象をおこすために生じ,対象となる振動体(すなわち左心室)の弾性や粘性の変化により影響をうける。この伝達関数は伝達比(magnitude)と位相差(phase)の2つのfactorよりなる。図1上段は3つの入力周波数(f1,f2,f3)に対応する入力振動と出力振動を示す,,下段は,人川力振幅比(B/A)一周波数関係ならびにイ立相差一周波数関係を示す。この方法により求められた伝達関数のパターンは測定する心臓の粘性ならびに弾性の変化を鋭敏に反映することが示されている。1)われわれは以前の実験で心筋梗寒等による心筋の不均一性がない状態においては,左心室の伝達関数は基本的に単峰性であるのに対し,心筋が不均一の状態,たとえば実験的に一枝冠閉塞を作成すれば,部分的な心筋虚血巣の出現により2つの共振周波数をもつ二峰性のパターンとなることを報告した。2)このことは,伝達関数のパターンより心筋の不均一性が推定可能であることを示唆するものであり,本法の大きな特長である。
2)測定システム
伝達関数測定のシステムは次の機器により構成される。まず,振動入力のシステムは加振器(Bruel社製),パワーアンプ(Shinn Nippon Sokki社製),ファンクションジェネレーター(lwatsu Electric社製)より成り,入力加速度を1.OGに保つために加振器のシャフトに取り付けた加速度型ピックアップ(Shin Nippon Sokki社製)により入力振動を測定し,フィードバック回路を通じてパワーアンプの出力を制御する。入力周波数をIOH7より200Hzまで,2Hzごとに増加させて入力し,出力振動は加振端の対側の心表面に接着した同型の加速度型ピックアップにより検出する。入力ならびに出力振動は振動計を通じて増幅され,続いてシグナルプロッセッサー(Ono Sokki社製)によりA/D変換,FFT処理を受け,phaseとmagnitudeをモニター上に表示する。この間の処理に必要な時間は約60秒程であり,ほぼリアルタイムに伝達関数を求め得る。
3)実験方法
実験には雑種成犬7頭を用いた。図2上段に実験標本を示す。ペントバルビタールにて麻酔後,人工呼吸一下に両側開胸した。心膜は剥離し,pericardial cradleを作成した。右総頚動脈より上行大動脈基部にポリビニル製カテーテルを挿入し,これを心筋保護液注入用とした。以上の操作終了後,下行大動脈,上・下大静脈を結紮し,4℃の心筋保護液200m1を上行大動脈に留置したカテーテルより急速注入して心停止を開始した。さらに,心筋冷却の目的で4℃の生理的食塩水を心臓表面に流し,心室中隔に刺入した温度計により心筋温を測定,一定に保った。心臓を還流した心筋保護液の排出のために,右心室自由壁に切開を加えた。振動の入力は左心室側壁に加振器のシャフト先端を接着して行ない,その対側(主として心室中隔右室側)に小型の加速度型ピックアップを縫着し,これより出力振動を検出した。また,入力振動は加振器のシャフトに取り付けた同型の加速度型ピックアップにより測定した。
プロトコールを図2下段に示す。心停止開始後15分以内に最初の伝達関数の測定ならびに心筋切片の採取を行い,これをコントロールとした。心筋切片は右心室自由壁より2片ずつ採取し,それぞれ電子顕微鏡標本用ならびに水分含量測定用とした。コントロール測定後,低浸透圧性心筋保護液200ml(265mOsm4℃)を30分ごとに上行大動脈内に伝達関数上に変化がみられるまでこれを繰り返した。伝達関数の測定は15分ごとに,心筋切片採取は30分ごと,それぞれ,各心筋保護液注入直前に行なった。伝達関数のバターンの変化が生じた後は,心筋の浮腫を減少させる目的で10%マニトールで調整した高浸透圧性心筋保護液(360-500mOsm)に切り替えて同様の注入を行い諸測定を行った,さらに,再現性の確認のため高ならびに低浸透圧性心筋保護液の注入を繰り返して,各々測定を行なった。
電子顕微鏡用の心筋切片は採取後直ちに固定液(0.2Mcacodylatebufferedsolution,1.25%glutaraldehyde,4.0%paraformaldehyde)に保存しその後の電子顕微鏡(LEM2000)による解析にまわした。他の心筋切片は,付着した水分を除去し重量を測定後,電気恒温槽内で48時間乾燥させ再度重量を測定して以下の式に従って水分含量を計算した。
%水分含量=(乾燥前重量一乾燥重量)XIOO/乾燥前酢景
3.成果
1)結果
図3は,心停止後の伝達関数と心筋水分含量の経時的変化を示す。図3の左よりそれぞれ,magnitude,phase,心筋水分含量である。上段より,コントロール,心停⊥1.後320分,高浸透圧液注入後(340分),再度低浸透圧液後(350分)再度高浸透圧液後(360分)で得られたデータである。コントロールでは未だ不可逆的な心筋の変性は生じないが,この状態における伝達関数のパターンは次のごとくであった。すなわち,上段magnitudeは明確なピークを持たず(10ないし20Hzにみられるピークは心臓の振り子運動にともなうピークであることに注意〉,高周波数域にむかうにしたがってなだらかに減少するバターンをとった。phaseは入力周波数が増加する,にしたがい増大したが,最終的に540°以上の位相遅れを示さなかった。一方,心停止後320分ではその伝達関数はコントロールのパターンと異なり,magnitudeにおいては25Hz付近にそれまでみられなかった新たなピークが出現した,また,phaseにおいては,コントロール時には540°以.上の遅れを示さなかったが,720°以上となっており著明なphaseの遅れを示した(図3ではphaseは+360⊃で表示しているので,全体として"N"の形となっている)、この伝達関数のパターン変化が生じた320分の水分含量をみてみると,コントロールでの73%より83%にまで顕著に増加しており,心筋の浮腫が出現してきていることを意味する。心停止後340分で高浸透圧液を注入すると,図中3段目に示すように水分含量は78%まで低下し,magnitudeでは25Hz付近にみられたピークが消失,phaseではその遅れが540°以内となり,コントロールのバターンに回復した。図中4段目350分のデータは再現性をみるために再度低浸透圧液を注入した状態である。この状態では320分にみられたものと同様のmagnitudeならびにphaseの変化,すなわち,新たなピークの出現とphaseの遅れの増大が認められ,最下段360分に示す高浸透圧液の注入によりこれらの変化の消失をみた。
図4,5,6に伝達関数の変化と各時点での電子顕微鏡写真を示す。コントロール(図4)では細胞内は正常で異常な所見は見当たらないが,前述の伝達関数の変化が出現した心停止後320分(図5)では著明な細胞内浮腫とミトコンドリアの膨化が認められた。図6は高浸透圧液注入後の像であるが,細胞内浮腫が消失しほぼ正常な心筋構造に復している。この時伝達関数のパターンも電子顕微鏡所見に平行してコントロール時のパターンに回復している。
2)考案
今回企画した実験により,伝達関数のパターン変化が細胞内の浮腫の出現と平行することが心筋水分含量ならびに電顕所見の両面から示唆された。Hearseらによれば,心停止状態における心筋細胞の壊死過程は図7に示すように進行するという。すなわち,まず細胞膜の浸過性の亢進や心筋ATPの枯渇が徐々に進行し,形態学的にはミトコンドリアの膨化や細胞内浮腫の出現する。その後ミトコンドリアや筋原繊維の変性が生じ,細胞構造の崩壊に続くという。この一連の変化のどの時点で不可逆的変化が始まるかは未だ議論の多いところであるが,細胞内浮腫の出現に前後して生ずるという意見が多い.従って,細胞内浮腫を伝達関数のパターンより検出することで,心筋の不可逆的変化の始まりを推定することが可能であると思われる。
伝達関数のパターン変化が心筋の浮腫を反映したのは次のような理由が考えられる。伝達関数は前述のごとく,心筋の粘性・弾性により影響され,浮腫が出現すると心筋の弾性が増大することは以前より指摘されている(stoneheart)。したがって,今回magnitude一上で新たなピークが出現したのは左心室の弾性の増大を反映したものと思われる。一方,phaseにおいてはその遅れの増大が著明となったが,これは粘性の増大の結果と考えられる。
伝達関数法にはいくつかの長所がある,第一に,心筋の不一致性を推定できることである。2)心筋梗塞症疾患捧や狭心症患者においては,心筋保護液を注入しても冠動脈に狭窄があるために十分に還流されない部分が生じる可能性があり,これらの患者で開心術中に不可逆的変化をきたしやすい理由とされている。伝達関数は部分的な虚血巣を敏感に検出するが,上述にような状況においても部分的な心筋'変性を測定する方法たりうる第二に,本法は心臓外部での操作であり,基本的に心筋自体に対する侵襲はない。さらに,第三に,測定時間がきわめて短く,ほぼリアルタイムに結果が得られるこれらふたつの特質は本法の臨床応用に際して大きな長所といえよう。今後,これら多くの利点を持つ伝達関数法の臨床応用をさらに進めたいと考えている。
4.まとめ
低体温心筋保護下に生ずる不可逆的変化のリアノレタイムモニター法を開発するために,左心室の振動に対する応答より伝達関数を求め,このパターンの変化をみた伝達関数のハターンは心筋の細胞内浮腫の出現と平行して変化した、心筋の細胞内浮腫はその不可逆的変化と同時期に出現すると言われており,伝達関数法による心筋不可逆的変化検出の可能性が示唆された。