2003年[ 技術開発研究助成 ] 成果報告 : 年報第17号

多重内部反射赤外分光法による生体分子計測システムの構築

研究責任者

庭野 道夫

所属:東北大学 電気通信研究所 物性機能デバイス研究部門 教授

共同研究者

木村 康男

所属:東北大学電気通信研究所 助手

共同研究者

篠原 正典

所属:長崎大学 工学部 助手

概要

1.はじめに
 細胞は小さく、複雑である。その構造や分子組成を解明するのも難しいが、細胞成分の機能を解明することはさらに難しい。これまで新しい技術の開発が、研究の大きな進歩をもたらしてきたが、今後も、細胞をはじめとする生体物質の機能の解明には、今まで以上の分析手法、実験手法の高度化が要求される。21世紀はバイオの時代といわれるが、それを支える技術の基盤を強固にすることは、バイオ研究の必要性を説く以上に重要であろう。特に細胞機能の理解は、生体の機能解明にとっても重要で、特に"生きたまま"での機能分析が強く求められるところである。
 細胞の機能は細胞膜の働きの解明によって明らかにできる。細胞膜は脂質2分子膜によって成り立っているが、この膜が複雑な構造を持ち、生体分子との協同的な相互作用によって、多種多様な機能を生み出す。しかしながら、細胞膜表面での生化学反応は未解明な部分が多い。この膜表面の反応機構を解明し、その結果を用いて、高度な分子認識センサーを開発することが本研究の課題である。細胞の様々な機能の発現においては細胞膜が大きな役割を果たしている。そして、中でも細胞膜表面で起こる一連の化学反応プロセスが重要である。細胞は液体である生体物質の中でその特有の働きをしている。したがって、液体中での細胞膜表面を"その場"観察できれば、細胞に似た働きを持つ分子認識機能システムを構築することもできる。
 本研究では、シリコン半導体表面上に擬似細胞膜、具体的には脂質膜を形成し、その表面の生体物質の相互作用を解明するとともに、その結果を用いて、分子認識センサーや生体物質の分析センサーを構築することを目指す。これらの機能を持たせるために、われわれは、赤外分光法を用いた。従来、赤外分光法は有機物質の分析に多用されており、当然、生体物質の検知には非常に有効である。少量の生体物質の高感度な測定を行うために、多重内部反射法を用いた。また、LB法を用いて高配向でシリコン基板に固定化された単分子膜の形成を行った。これらの技術を組み合わせ、半導体表面に分子認識等の特別の働きを持つ薄膜を堆積しておけば、膜表面の化学状態を高感度で検出できると考えられる。
2.実験
2.1多重内部反射赤外分光法
 図1に示すように端面が45度に研磨されたシリコンウェーバを切り出しプリズムとする。その一方の端面から赤外線を入射する。入射した赤外線は全反射を繰り返しながらシリコンプリズム内を伝搬する。
全反射の際に、シリコンプリズム表面にはエバネスセント波と呼ばれる非伝搬光が励起され、シリコンプリズム表面に赤外吸収体によって赤外線は吸収される。本研究で使用するシリコンプリズムにおいては、その全反射回数が数十回と非常に大きいため、高感度・高精度にシリコンプリズム表面の物質の赤外吸収スペクトルを測定することができる。さらに、本手法は雰囲気を選ばないという特徴があり、真空中、大気中、溶液中での測定が可能である。
2.2水素結合の状態変化の検出とシリコンプリズム表面の多孔質化による高感度化
 生体物質には水素結合が重要な役割を果たしている。特に、DNAはアデニンとチミン、グアニンとシトシンが互いに水素結合で結合することにより螺旋構造を成している。
したがって、DNAのハイブリダイゼーションを検出するDNAセンサーを構築するためには水素結合について詳細に調べる必要がある1)。水やエタノールは、0-H基を持ち、それを介して水素結合によりクラスターを形成していることが知られており、エタノールー水混合溶液のクラスターの構造は濃度に依存する2)。そこで、図2に示す溶液セルを用いてエタノールの濃度を変化させたときのエタノールー水混合溶液の赤外吸収スペクトルを測定し、それらの水素結合の変化を検出することを試みた。溶液セルには、チューブが2つ取り付けられており、容易に溶液を入れ替えられるようになっている。また、シリコンプリズム(作用電極)の電位は可逆水素電極(RHE)を基準に測定した。さらに、測定されたスペクトルとGaussian'98を用いた第一原理計算とを比較し、どの様な水素結合の変化が生じているのかを調べた。ただし、第一原理計算における基底系としてB3LYP16-31G(d',p')を用いた。
本研究で用いたクラスターは、図3(a)に示すように、低濃度にいては水1分子とエタノール1分子で構成される二量体(ダイマー)を、用い、高濃度においては、図3(b)に示すようなエタノール分子のみで構成される三量体(トライマー)を用いた。
 生体物質は非常に微量であるため、できるだけ高感度に測定を行う必要がある。そこで、プリズム表面を多孔質化させることによって多重内部反射法の更なる高感度化を目指した。p型シリコンをHF中で1V未満の電圧を印加すると、微細な孔を持つポーラスシリコン(por・Si)が形成され、その表面は水素で終端されている。水素で終端されたシリコン表面は疎水性となることが知られている。つまり、水分子をはじくがエタノール分子は疎水性の部分も持っているためはじかれない。しがって、水素化したシリコン表面は選択的に疎水部分をもつ分子を選択的に吸着させることができると期待され、多孔質化によりその表面積を増加させることにより、疎水性、親水性の両方の性質を持つエタノール分子の検出の感度を向上させることができると考えられる。本研究では、長さ17mmのp型シリコンプリズムを用い、0.5%フッ酸中で印加電圧0.5VRHEの多孔質化処理を45分間行った。
2.3シリコンプリズム上への単分子膜の形成
 バイオセンサーとしてこの分子膜を利用する場合、シリコンプリズムと分子膜を固定化する必要がある。そこで、本研究ではLB(Langmuir-Blodgett)法により、有機単分子膜をシリコンプリズム上に形成させた。本研究では、その原料として、オクタデシルトリエトキシシラン(oTEs)cH3(cH2)17si(c2H50H)3及び、オクタデシルトリクロロシラン(OTCS)CH3(CH2)17SiCl3を用いた。これらの分子は、水により容易に分解され、Si原子には3つの水酸基が結合する。それらが脱水反応によって重合することにより、不溶性の膜となる3)~5)。また、シリコンプリズム表面を水酸基で終端しておくことにより、シリコンプリズムとも結合させることができる。実際にはシリコンプリズムを硫酸と過酸化水素水1対1の混合溶液に浸漬することにより表面の水酸化処理を行った3)'4)。また、OTES、OTCSは大気中の水分と反応してしまうため、調合及び滴下、堆積などの全ての作業を窒素置換されたグローブボックス内で行った。OTESの希釈溶媒は及び濃度は、それぞれ、脱水クロロホルム、2911であり、OCTSの場合は、濃度は0.1911とし、希釈溶媒は脱水ベンゼンを用いた。
3.結果及び考察
3.1エタノールー水混合溶液の赤外吸収スペクトル
 図4にエタノールー水混合溶液の濃度を変化させたときの赤外吸収スペクトルを示す。(a)及び(b)は、それぞれ、0-H及びC-H伸縮振動領域、C-0及び0-C-C伸縮振動領域におけるスペクトルである。ただし、図4(a)の0-H伸縮振動領域での測定では水による0-H伸縮振動の影響を避けるため、重水によってエタノールを希釈した。これより、明らかにエタノールの濃度が増加するとともに3400cm-1付近の0-Hの振動ピークが低波数側ヘシフトしていることがわかる。一方、水素結合に関わらない2800~3000cm'1のC・H振動ピークはその位置を変化させずにピーク強度のみが濃度とともに変化していることがわかる。同様に、水素結合に関与する1080cm幽1のC-0振動ピークが低波数側ヘシフトし、1045cm-1のC-C-0振動ピークに関しては、その半値幅が高波数側へ拡がっている様子がわかる。このことを分かりやすくするために、図4(b)に示すC-0及びC-C-O伸縮振動領域の赤外吸収スペクトルを2階微分したものを図4(c)に示す。明らかに、C-C-0振動ピークは、高波数側に新たなピークが現れ、2つのピークに分離している様子がわかる。これらの結果は、エタノールの濃度が増加することにより、水と水素結合していたエタノール分子がエタノール分子同士でクラスターを形成することによって水素結合の状態が変化し、水素結合に関与する酸素原子が関わる分子振動がその影響を受け、ピークのシフトや分離が生じたものであると考えられる。
 第一原理計算によっても実験結果と同様の結果を得た。図5(a)に0・H伸縮振動領域及び(b)C-0,C-C-0伸縮振動領域における第一原理計算の結果を実験結果とともに示す。
0-H伸縮振動ピークが低波数側ヘシフトしていることがわかる。C-0伸縮振動は水一エタノールダイマーのときには1089cm'1のみにピークを持つが、エタノールトライマーの場合には、3つのピークが低波数側に現れている。これは、以前に報告されているメタノール分子の0-H,C-0振動ピークが水素結合によりレッドシフトするという計算結果と一致する6)'7)。実験結果ではピークシフトのみが観測され、ピーク分離は確認できないが、これは、C-0振動ピークの半値幅が分離の幅に比べて大きいためであると考えられる。一方、C-Cつ振動ピークの場合、水一エタノールダイマーの場合には1つであるピークがエタノールトライマーになると高波数側に新たなピークが現れ、ピークが分離することがわかる。このことは、実験結果をよく説明している。
以上の実験結果と計算結果の一致は、赤外分光法によりピークのシフトという形で水素結合の状態変化をとらえることができ、DNAセンサーへの応用が可能であることを示唆している。シリコンプリズム表面を多孔質化することにより多重内部反射法の更なる高感度化を試みた。図6に多孔質化中におけるシリコンプリズム表面のシリコンハイドライド(SiH。)の赤外吸収スペクトルを示す。
時間とともにダイハイドライド(SiH2)を示す2110cm-1のピークが増大していくことがわかる。45分後のその強度は水素終端されたSi(100)表面でのピーク強度の50倍程度となっている。これは、多孔質化することにより、シリコンプリズム表面積が増大し、その表面が水素で終端されていることを示している。多孔質化処理終了後のシリコン表面のAFM像を図7に示す。表面がエッチングによって荒れていることがわかる。実際には、por-Siはさらに小さなナノメートルサイズの構造を有しており、その結果がハイドライド成分の増加にっながっている。
多孔質化処理を行ってエタノールー水混合溶液の赤外吸収を測定したときのエタノールの濃度とC-H、C-0振動ピークの強度との関係を未処理の場合とともに図8に示す。およそ、2倍程度感度が向上していることがわかる。水素化したシリコン表面は疎水性であるため、por-Siの孔にはエタノール分子が入り込みやすく、選択的にエタノール分子を引き寄せているため、感度が向上したと考えられる。今回の実験では感度の向上は2倍程度であったが。孔のサイズなど、最適な多孔質化の条件を見つけることにより、さらに感度が向上する可能性がある。
3.2シリコンプリズム上への単分子膜の形成
 図9にOTCSを純水上で展開したときの(a)rA曲線及び(b)堆積後のAFM像を示す。π一A曲線が立ち上がりはじめる1分子当たりの占有面積は0.35nm2/molec.で、以前に報告されている値の0.25nm2/molec.に比べて大きい値となっている3)'4)。また、堆積後のAFM像には大きな塊が見える。これは、OTCSの反応性が高く、
溶媒との調合中に重合が始まったためであると考えられる。そこで、反応性がOTCSよりも低いOTESを用いて同様の実験を行った。そのときのπ一A曲線を図10(a)に示す。OTESを水面上に展開したときには、π一A曲線が崩れていることがわかる。一方、pH3.1の硝酸上に展開したときにはそれが改善され、さらに、クロロホルムが蒸発させるために展開してから堆積開始まで2時間待つことにより、急峻に立ち上がる理想的なπ一A曲線が得られた。この条件で堆積したOTESのAFM像を図10(b)に示す。OTCSで見られたような塊は存在せず、均一で平坦膜が堆積できていることがわかる。また、高エネルギー加速器研究機構BL・7AにてX線吸収端微細構造解析(NEXAFS)を行い配向性の評価を行った。その結果、ほぼ、基板と垂直方向に配向していることがわかった。OTESを使うことにより、平坦で配向性の高い単分子膜の作製することに成功した。
 
次に、OTES単分子膜をLB法により堆積したシリコン基板に100℃、30分の熱処理を施した後、純水、続いてクロロホルムによるリンスを行い、その前後での赤外吸収スペクトル及びAFM像の測定をすることにより、基板への密着性を調べた。図11(a)、(b)にそれぞれC-H伸縮振動領域の赤外吸収スペクトル、AFMの結果を示す。純水、クロロホルムのリンスによって、強度、形状ともに赤外吸収スペクトルは変化せず、非常に強固な単分子膜が形成されていることがわかる。しかしながら、クロロホルムのリンス後のAFM像には2nm程度の段差が観察された。赤外吸収スペクトルが変化しないことを考え合わせると、この段差は基板に垂直配向していたOTESのアルキル鎖が基板と平行になったためであると考えられる。
4.まとめ
 赤外吸収分光法を用いた生体分子計測システム構築のために必要となる水素結合の状態変化の検出、多重内部反射法の更なる高感度化、LB法を用いた生体分子検出プロ一ブを固定するための単分子膜のシリコンプリズムへの固定化を行った。
その結果、水素結合の状態変化をピークシフトという形で検出できること、シリコン表面を多孔質化するとにより感度が改善されることを示した。また、OTESを硝酸上で展開することにより水や有機溶剤に不溶な単分子膜をシリコンプリズム上へ堆積することに成功した。シリコンプリズム上に固定化された単分子膜にプローブDNAを固定し、その相補的なDNAとハイブリダイゼーションすることによる水素結合の変化を詳細に分析することにより、本手法がDNAセンサーとして機能すると考える。