2006年[ 技術開発研究助成 ] 成果報告 : 年報第20号

多光子励起型3次元超高速分光計測システムの開発

研究責任者

橋本 秀樹

所属:大阪市立大学大学院 理学研究科 物性物理学講座 教授

共同研究者

リチャード・コグデル

所属:グラスゴー大学生命科学研究所 生化学教室 教授

共同研究者

杉﨑 満

所属:大阪市立大学大学院 理学研究科 物性物理学講座 助教授

共同研究者

佐島 徳武

所属:科学技術振興機構 研究員

概要

1. はじめに
人類が現在、地球規模で遭遇している問題として、(1) 炭酸ガスによる地球温暖化、(2) エネルギー不足、(3) 人口爆発による食糧不足の問題があげられる。光合成反応は、水と二酸化炭素から光エネルギーを用いて、生体エネルギーと食糧を生成する反応である。しかもその初期過程は、現存する最高の光エネルギー変換効率を有するバイオメカニズムである。実際に光合成反応では、捕らえた光エネルギーを使って電流を発生する、つまり太陽光発電を行っている。したがって、光合成系は「自然が創造した分子エレクトロニクス素子」と呼ぶことができる[1,2]。光合成反応(生体による光操作・制御)の仕組みを正しく理解し、その機能を模倣・制御し、同程度の光エネルギー変換効率を達成することにより上述の問題に正当に対処する,全く新しい解決方法が提案できると期待される。光合成初期反応の機能発現には、図1に示したカロテノイド(カロチン色素)及びクロロフィル(葉緑素)と言った、特定の共役鎖長及び環構造を持った光合成色素が、アポ蛋白質により形成される反応場の中で空間的に規則正しく配列した、いわゆる「色素蛋白超分子複合体構造」が密接に関係している。本研究の中心課題である紅色光合成細菌の光合成系は、LH2 及びLH1 と言う2種類の光捕集アンテナ色素蛋白複合体と、取り込んだ光エネルギーを電気化学的エネルギーに変換する光反応中心複合体(RC)により構築されている。高度な生化学技術を要する、光合成膜蛋白質のX線結晶構造解析の成功により、図2に示したとおりこれら色素蛋白複合体の構造が原子スケールで明らかにされつつある。一方、近年の超高速レーザー分光技術の進歩により、機能ユニット間のエネルギー移動・電子伝達の素過程が、実時間スケールで明らかにされるに伴い、その機能を従来の物理概念のみで解釈することは困難である事が指摘され始めている。ナノバイオロジー技術の進歩により、光合成色素蛋白超分子複合体構造そのものに人為的操作を施し、改変・再構築することが可能となっている[3-7]。また、極超短パルス光の位相制御(チャープ制御)技術の進歩により、「光」そのものの性質を制御することが可能となって来ている[8]。このような状況を踏まえ、光合成研究は天然試料そのものを使って研究を進めるだけでなく、人為的に色素構造及び蛋白質のアミノ酸配列を改変した、天然には存在しない試料(人工色素蛋白超分子複合体)を使って、従来技術では克服できなかった諸課題を解決すると同時に、光合成初期反応そのものを人為的に制御する、より高い次元の研究へと移行しつつある[1,9]。本成果報告書では、紅色光合成細菌のアンテナ系色素蛋白複合体の分子構築・機能について紹介した後、著者らが開発した多光子励起型3次元超高速分光計測システムを用いて検出した、光合成色素カロテノイドの光励起状態における波束運動の実時間観測に代表される、最もホットな成果について記述する。さらに,将来展望として、光合成初期反応のコヒーレント制御に関する研究について言及する。

2. 光合成系の分子構築と機能
2.1 光合成アンテナ色素蛋白複合体の構造と機能
紅色光合成細菌の光合成反応は、Rhodobacter(Rb.) sphaeroides やRhodospirillum rubrum のような細菌では、形質膜の一部が変化し、球状ベシクルを形成したクロマトフォアと呼ばれる光合成膜(光合成反応に特化した生体膜)上で営まれている。一方、Rhodopseudomonas (Rps.) acidophila,Rps. palustris, 及びBlastochloris viridis のような光合成細菌では、扁平な細胞膜が積層した構造がその役割を果たしている[10,11]。図3に典型的な光合成細菌である、Rb. sphaeroides 2.4.1 株のクロマトフォア膜の吸収スペクトルを示した。紫外・可視・近赤外の幅広い波長域に渡る、特徴的な構造を伴った吸収バンドが存在する。これらは全て光合成色素、カロテノイドとバクテリオクロロフィル(Bchl)によるものである.図中Car と記したものがカロテノイドの吸収バンドで、B,Qx 及びQyと記したものがBchl の吸収バンドに対応する。カロテノイド色素は直鎖状の共役ポリエン骨格を有する炭化水素化合物[図1(a)参照]で,共役鎖長の違いにより吸収帯の位置が変化し、そのことが光合成細菌の色調の違いに反映される。Bchl のQy 吸収帯は蛋白内における構造の違いに敏感で、800,850 及び875nm の3つの吸収帯として観測されている。光合成系の機能発現、特に明反応には上述の光合成色素がアポ蛋白質と結合した色素蛋白複合体が密接に関係している。紅色光合成細菌の光合成系には、一般的に周辺アンテナ色素蛋白複合体(LH2)、コアアンテナ複合体(LH1)、及び光反応中心複合体(RC)の3つの色素蛋白複合体が存在する。アンテナ色素蛋白複合体は文字通り、光エネルギーを捕獲するアンテナとしての機能を有する色素蛋白複合体で、捕まえた光エネルギーを励起エネルギーと言う形で各アンテナ色素蛋白複合体間(LH2→LH2 及びLH2→LH1)を受け渡し,最終的にRC に伝達する働きを担っている。RC は、伝達された励起エネルギーを用いて電荷分離(発電)し、電子伝達反応を駆動する役割を担っている。光合成研究の近年における大きなブレークスルーは、非常に高度かつ困難な生化学技術を要する、光合成膜蛋白質(脂溶性蛋白質)の結晶化及び単結晶X線構造解析が達成されて、上述の色素蛋白複合体の構造が原子スケールで明らかになったことである。LH2 アンテナ色素蛋白複合体の原子分解能を持つ結晶構造解析に関する報告は、本研究の共同研究者である英国グラスゴー大学のリチャード・コグデル教授の研究グループにより1995 年に発表された[12]。LH2 複合体は一対の?及び?ポリペプチドに単量体Bchl(B800-Bchl)、二量体Bchl(B850-Bchl)、2分子のカロテノイドがサンドイッチされたユニットにより構成されている。このユニットが9回対称性を持ち会合した非常に美しい構造を取っている(図2参照)。LH2 複合体には800 nm 及び850 nm にQy 吸収帯を持つ2種類のBchl が存在する。前者が単量体Bchl,後者が二量体Bchl の吸収に対応している。B850 Bchl は,二量体化することで励起子相互作用により励起状態のエネルギーが安定化されて,Qy吸収体が単量体の場合に比べて50 nm長波長側にシフトしている[13]。カロテノイドはB800 及びB850 Bchl とファン・デル・ワールス半径程度の距離に近接しており、Bchl が吸収できない波長域の光を吸収し、B800 及びB850 Bchl に励起エネルギー伝達を行っている(カロテノイドの補助集光作用)[14]。さらに、2分子存在するカロテノイドのうち一方はB800 Bchl と隣接するユニットに存在するB850 Bchl とを繋ぎ、会合体構造を安定化する役割も果たしている[14]。もう一つのアンテナ複合体であるLH1 の構造に関しては、二次元結晶に対する電子線回折[15]及び原子間力顕微鏡[16]を用いた研究によりLH2と類似した16 回対称のリング状の構造を持つことが示唆されていた。最近、英国グラスゴー大学のコグデル教授らの研究グループにより、光合成細菌Rps. palustris のRC-LH1 コア複合体の三次元結晶を用いた、4.8 ? 分解能のX線結晶構造解析の結果が報告された[17]。図2に示したとおり、LH1 複合体は15 対の膜貫通?, ?-ポリペプチドがRC の周りを楕円状に取り囲んだ構造を取っており、一つの膜貫通ポリペプチド(W-ポリペプチド)によりリングが完全に閉じるのを阻止されていることが明らかになった。このW-ポリペプチドが、QB がRC-LH1 系外に抜け出す際に重要な役割を果たしていると推定されている[17]。近年の超高速レーザー分光法を用いた研究により、光合成色素蛋白複合体の各ユニット内及びユニット間の励起エネルギー移動の実時間観測が可能となっている[18]。現在までに得られている知見を要約して図2に記した。LH2 複合体内における励起エネルギー移動は、B800 Bchl 間が~500fs (= ~5 × 10?13 秒) ,B850 Bchl 間が100 ~ 200fs,B800 → B850 が1.2 ps (= 1.2 × 10?12 秒)と言う、驚くべき超高速の過程である。しかもほぼ100%の励起エネルギー移動効率が達成されている。LH2 リング内に蓄積された励起エネルギーは、隣接するLH1 複合体に3 ~ 5 ps の時間で伝達される。LH1 に伝達された励起エネルギーは35 ps と言う,比較的ゆっくりとした時間でRC 内のスペシャルペアーBchl に伝達される。この最終段の励起エネルギー移動が律速になっている理由は、B875 Bchl とスペシャルペアーBchl の空間的な距離が隔たっているためと、LH1 → RC のエネルギー伝達過程がアップヒルになっているためである。一見、非効率的に見えるこのエネルギー伝達が、電子伝達を行った後にスペシャルペアーBchlに残る正孔がLH1 に逆戻りして、不必要なトラップになるのを防ぐ重要な役割を果たしている。

2.2 アンテナ色素蛋白複合体におけるカロテノイドからバクテリオクロロフィルへの励起エネルギー移動とカロテノイドの中間励起状態
アンテナ色素蛋白複合体におけるカロテノイドからバクテリオクロロフィルへの励起エネルギーの移動効率は、光合成細菌の種類に依存して、30%からほぼ100%まで変化する[19]。つい最近まで,カロテノイドからバクテリオクロロフィルへの励起エネルギー移動の機構は、図4に示したエネルギーダイアグラムに基づいて、完全に説明できると考えられていた。カロテノイドには基底状態からの一光子遷移に対して許容なS2 状態と禁制なS1 状態の2種類の一重項励起状態が存在する[20]。S2 状態は青~緑スペクトル領域の強い吸収バンドと関係しており、ポリエン部分の対称性をC2h 対称と仮定して、その電子状態は11Bu+状態に帰属されている。一方,S1 状態は21Ag?状態に帰属されている。これら2つの励起状態の寿命は、ポリエン部分の共役性の程度に依存する。例えば、典型的なカロテノイドの一種である?-カロテンの場合、S2 状態の寿命は200 fs 程度と極めて短いのに比べて、S1 状態の寿命は10 ps 程度の長さを持つ[21]。サブピコ秒の時間分解能を持つ時間分解蛍光分光を用いた研究により、S2,S1 何れの励起状態からもバクテリオクロロフィルへのエネルギー移動が起こることが示されている[22]。したがって、カロテノイドからバクテリオクロロフィルへのエネルギー伝達効率は、S2,S1 の各々の励起状態が如何に効率よく光エネルギーを捕獲するかに依存することになる。しかしながら、近年になり、上述したS1 状態とは別の一光子禁制な一重項励起状態が、S2 状態とS1 状態との間に“中間励起状態”として存在することが確認され、状況がより複雑になっている。このことは、Tavan とSchulten による理論計算の結果により象徴的に示すことができる[23,24]。彼らの計算によれば、C=C 結合数が4つよりも多いポリエン分子の場合、11Bu?状態と帰属される別の一光子禁制な一重項励起状態が、中間励起状態として存在することが予測されている。理論予測をさらに共役二重結合数が多くなる方向に補外すると、C=C 結合数が10 個よりも多いポリエン分子では、もう一つ別の1Ag?状態が中間励起状態として存在することになる。ごく最近、Tavan とSchulten による理論予測を裏付ける実験結果が、小山らのグループによるカロテノイド結晶に対する共鳴ラマン励起プロファイルの測定により報告されている[25-28]。20 フェムト秒を切る時間分解吸収分光を適用することで,S2 状態に光励起した後に中間励起状態に緩和する様相が実時間スケールで観測された[29]。観測された中間励起状態は、その属性が明確では無いので、一時的にSx 状態と命名されている(詳細については後述する)。小山らも、装置の時間分解能は不十分ながら、時間分解吸収及び時間分解蛍光スペクトルの測定結果に、特異値分解(SVD)とそれに続くグローバル・フィッティングを行うことにより同様に中間励起状態を検出している[30-34]。彼らは、検出した中間励起状態をモデルポリエンに対するTavan とSchulten の理論計算の結果を参照して[23,24]、11Bu?あるいは31Ag?状態に帰属している。SVD とグローバル・フィッティングを用いた解析は取得した全スペクトルデータを用いてダイナミックスを解釈できるので、確かに有効な手段ではあるが、観測した時間分解スペクトルが連続的なシフトを示す場合は注意を要する[35]。カロテノイドの一種、ヌロスポレンに対するフェムト秒時間分解誘導ラマン分光の結果も、S2 → S1 の緩和過程において11Bu?状態が中間励起状態として存在することを支持している[36]。溶液中のフリーなカロテノイド分子及びアンテナ色素蛋白複合体に結合したカロテノイドについて、S*状態と命名される他の中間励起状態が発見され、さらに状況が複雑になっている[37-41]。S1 → Sn 吸収の高エネルギー側に現れる過渡吸収バンドが、時間分解吸収スペクトルの測定とそれに続くSVD 及びグローバル・フィッティングを用いた解析により検出された[38-41]。この新たな吸収バンドがS*状態からの遷移に帰属されている。S*状態は、カロテノイドがアンテナ複合体に結合しているか否かに依存して、5 ~ 12 ps の寿命を持つ。カロテノイドがLH2 複合体に結合している場合、S*状態は三重項励起状態への緩和を示す。これに対して、溶液中のフリーなカロテノイドの場合、S*状態は直接S0 状態へ緩和する。つい最近、?-カロテン,リコペン,ゼアキサンチンに対して、過渡吸収スペクトルの測定に際してポンプ・ダンプ法を適用することにより、Wohlleben らは溶液中のフリーなカロテノイドのS*状態(S*sol)を再調査した[37]。彼らは、S*sol 状態が、電子基底状態の振動励起状態に帰属されること(S*sol = hot S0)を提案している。彼らはアンテナ蛋白に結合したカロテノイドのS*状態も検出しており、こちらはS*T と再命名している。?-カロテンのS0 → S2 吸収の高エネルギー側を光励起することにより、S‡状態と命名される、さらに別の中間励起状態が発見されている[42]。 S‡状態とS1 状態が、S2 状態からの緩和の際に,独立に存在することから、S‡状態は振動励起状態では無く、電子励起状態であることが示唆された。光励起後のカロテノイドの緩和過程における振動励起状態の介在は、当初、時間分解吸収分光測定により指摘されていた[43-45]。最近になって、この事は時間分解誘導ラマン分光を用いた研究によりさらに詳細に研究されている[46-50]。ペリディニン及びフコキサンチン等の極性カロテノイド類では、S2 → S1 の緩和過程において,電荷移動型の中間励起状態(SCT)が介在することが明らかにされている[51-54]。この電荷移動型の中間励起状態に関する詳細は、Pol?vka とSundstr?m による最近のレビュー記事を参照されたい[55]。まとめとして,図5に上で議論したカロテノイドの一重項励起状態の相対的なエネルギー準位とS2 状態からの緩和過程を模式的に記す。

3. 研究成果
3.1 多光子励起型3次元超高速分光計測システムの開発
本研究では、ポンプ・プローブ時間分解吸収分光を行うために、可視・近赤外(NIR)波長域でサブ20 フェムト秒程度の時間分解能を持つ、2つの非同軸光パラメトリック増幅器(NOPA)を開発した[29]。図6に著者らの研究室で製作したNOPA システムの光学系のブロック図を示した。フェムト秒再生増幅レーザーの出力(800 nm, ~100 fs)をビームスプリッターにより2分割し、一方をサファイア板に集光することにより、シード光となる白色光を発生する。もう一方をBBO結晶に集光し、第二高調波(SH 光; 400 nm, ~100fs)を発生する。発生したSH 光をNOPA 用のBBO結晶に集光し、パラメトリック下方変換過程により発生したパラメトリック蛍光と、シード白色光とを、NOPA 用BBO 結晶内で空間的・時間的に重ね合わせることにより光パラメトリック増幅を行う。発生したNOPA 光は、プリズム対とチャープ鏡対とを用いたパルス圧縮を行うことにより、530 ~ 750 nm の波長帯域においてパルス幅10 フェムト秒を切るフェムト秒パルスの発生を行っている。NOPA を使った極超短パルス光の発生に関しては,実際に分光応用されているものとして4 フェムト秒を切るパルス圧縮技術が報告されている[56]。NIR波長域においても、NOPA用BBO結晶での位相整合条件を満足させることにより、可視波長域と同様にサブ20 フェムト秒NOPA を構築することが可能である。図7に2台のサブ20 フェムト秒NOPA を用いた、ポンプ・プローブ過渡吸収分光実験の光学配置を示した。最初に、NOPA1 は可視スペクトル領域で約30 THz のバンド幅を持つように調整し、ほぼフーリエ変換限界の15-20 fs の時間幅となるようにパルス圧縮する。NOPA1 からの光パルスは,カロテノイドのゼロフォノン線を光励起するのに用いる。次に,NOPA2 はスペクトルが500 ~720 nm の波長帯域となる光パルスを発生し,NOPA1 同様,ほぼフーリエ変換限界でサブ10 フェムト秒の時間幅までパルス圧縮する。一方,NOPA2 は,NIR 領域においても動作するように再配置する。その際,発振波長は830 ~ 1050 nmとなり,溶融石英プリズム対を用いたパルス圧縮を行うことにより,ほぼフーリエ変換限界で15 fs程度のパルス幅となる。図8に励起状態のコヒーレンス(励起状態波束の運動)を実時間で観測するための、縮退4光波混合実験のための光学系の配置図を示した。レーザー光の波長は、測定対象となる試料(今の場合カロテノイド)の基礎吸収端近傍に設定し、基底状態と励起状態の両方の波束が観測できるようにする。第一・第二レーザーパルスを照射することにより試料の励起状態に分極を誘起する。励起状態のコヒーレンスが保たれている間、コヒーレントな分極が保持されるので、第三のレーザーパルスでその様子を観察する。ここで示した実験系では、縮退した光学配置を採用しているので、試料に入射するレーザーパルスに2k ??kの運動量保存則が満足される方向に4光波混合信号が観測される。遅延時間に対する、4光波混合信号の強度をモニターすることにより、励起状態波束の運動の実時間観測が可能となる。図8の光学系に記したように、試料に入射するレーザーパルスは、2つの独立した遅延光学系(精密微動ステージ)を経て,試料に到達する。ステージ1および2の移動は2つの独立した時間軸に対応しており、4光波混合信号の強度を縦軸に取る事で、分子の固有振動をも時間分解できる程度の極超短時間での励起状態波束の運動を、3次元的に計測することが可能である。

3.2 サブ20 フェムト秒分光によるカロテノイドの中間励起状態の直接観測
図9に以下で議論するカロテノイド分子の化学構造を示す。前述したとおり、カロテノイドのS2 状態からの緩和は超高速な光学過程である。したがって、中間励起状態のダイナミックスを正確に決定するためには、研究に用いるフェムト秒レーザーシステムの時間分解能が鍵となる。ここでは,著者らによるサブ20 フェムト秒の時間分解能を持つレーザーシステムによる、 中間励起状態Sx の特性に関するデータを示したいと思う。さきに示したレーザーシステムを用いることで,可視及び近赤外スペクトル領域における?-カロテンのサブ20 フェムト秒時分解吸収スペクトルを測定することが可能となった。得られた時間分解吸収スペクトルの一部を図10に示した。光励起直後800 nm 付近のスペクトル領域において,PA2 と表記した,S2 状態に由来する過渡吸収バンドが新たに同定された。この吸収バンドは,励起後50 fs で殆ど緩和し,代わりにPAx と表記した,別の過渡吸収バンドが1000 nm 付近に現れる。PAxはおよそ500 fs 以内で,良く知られたS1 → Sn 吸収に帰属される560 nm の過渡吸収バンド(PA1)へと緩和する。この新たに同定された中間励起状態が前節で紹介したSx 状態である。各々の過渡吸収バンドの立ち上がりと減衰の時定数は,S2 → Sx→ S1 の逐次的なエネルギーの流れに従う。同様の結果が,別のカロテノイドであるリコペンの場合でも確認できた[29]。この研究を,異なるC=C 二重結合数n を持つより広範なカロテノイド,すなわち,ヌロスポレン(n=9),M13(n=13)及びM15(n=15)に拡張した[57,58]。全ての分子において,中間励起状態Sxの存在を直接観測することができた。決定した全ての内部転換(IC)の速度定数は1/(2n+1)に比例することが分かった。この結果は,配置間相互作用効果を取り入れたPariser-Parr-Pople モデルによる理論予測と良い一致を示している[23,24]。このモデルでは,ポリエン分子の各準位エネルギーは,E = E0 + ?/(2n+1)の依存性を示す。S1 → S0 のIC の速度定数の1/(2n+1)依存性は,良く知られたエネルギー・ギャップ則を用いて説明することが可能である[59]。しかしながら,この法則をS2 → Sx 及びSx → S1 のIC 速度定数の場合に直接適用するのは危険である。何故なら,簡易版のエネルギー・ギャップ則は,比較的大きなエネルギー・ギャップを持つ場合にのみ適用可能だからである。仮にエネルギー・ギャップ則が適用可能であるとしても,S2 → Sx のIC 速度定数が20 fs の範囲であることを考えると,さらに慎重な議論を要する。このくらい速い超高速緩和過程は,光学遷移に結合した原子核の固有振動の周期と同程度の時間範囲であり、通常、励起状態のダイナミックスを記述するのに用いられる、断熱近似の範囲を超えるからである。このような場合は,S2 とSx 状態のポテンシャル表面を結ぶ,非断熱(diabatic)な経路を用いて初めて緩和過程が正しく記述される[60]。非断熱な経路を用いた解析では、S2 とSx 状態を別々のポテンシャル曲面で記述することが困難な状況になることが予想される。その際は、S2,Sx などを明確に区別して議論することがあまり意味を持たないことになる。この興味深い問題に関しては,さらなる検討を要する.もう一点注目すべき重要な課題は,中間励起状態Sx の帰属に関してである。Sx 状態の寿命は,例えば,?-カロテンについて蛍光アップ・コンヴァージョン法を用いて決定されているS2 状態の寿命と良い一致を示している[61]。上述したサブ20フェムト秒分光で,光励起に用いるレーザー光は,カロテノイドのS0 → S2 吸収の低エネルギー側の裾(ゼロフォノン線)を光励起している。したがって,Sx 状態はS2 状態(11Bu+状態)からの緩和により生成した,11Bu+状態とは異なる特性を持つ励起状態であると予想できる。前述したTavan とSchulten による理論予測にもとづき,もし,Sx 状態が11Bu?状態に対応していると仮定すると,すぐさま矛盾が露呈する。何故なら,Sx → S0 遷移は一光子禁制となり,したがって,発光しないはずだからである。Sx 状態が実際に図5に記したどの励起状態に対応しているのかを特定することは急務な課題である.現在のところ,中間励起状態が実際の光合成系におけるエネルギー伝達に関与している言う確固たる証拠は見つかっていない。しかしながら,カロテノイドからクロロフィルへのエネルギー伝達と言う,光合成初期過程の正に入り口に位置する根源的問題に関して,中間励起状態の存在は,従来概念を打破した全く新しい描像を創出するための基盤概念の再形成に資するのではないかと期待される。

3.3 β-カロテンおよびその同属体の縮退4光波混合
本研究で開発した,縮退4光波混合実験系を用いて,光合成色素カロテノイドの代表である?-カロテンとその共役鎖長を伸張した同属体(M15-カロテン)の4光波混合信号を観測した。例として,図11にM15-カロテン分子の結果を,等高線図として示す。第一レーザーパルスに対する,第二及び第三レーザーパルスの遅延時間の変化に伴い,コヒーレントな分極が極めて早い時間周期で振動している様子が分かる。この信号をフーリエ変換することにより,分子の固有振動と合致するスペクトルが得られた。すなわちこの結果は,カロテン分子のコヒーレントな分極が,分子の固有振動と同じ周期で変動しながら緩和すると言う,励起状態波束のダイナミクスを実時間で観測していることに対応している。非常に興味深いことに,励起状態のコヒーレンスはピコ秒オーダーまで保持されており,このことが,アンテナ色素蛋白複合体におけるカロテノイドからクロロフィルへの,高効率かつ超高速なエネルギー伝達の秘密を探る,鍵となり得ることが示唆される。

4. まとめ
1990 年以降、極超短レーザーパルスを用いた光反応制御の研究が目覚しく発展してきた。原子・2原子分子の光反応制御には、基本波と倍音波との干渉から光反応経路を制御する手法[62,63]や,空間光変調器を用いて生成物(反応中間物)の蛍光・吸収・イオン化量をモニターし、その値が最大値(最小値)になるように空間光変調器をフィードバック制御し、パルス形状が最適化された光を照射する手法[64-70]が報告されている。レーザー色素などの分子に関しては、線形チャープさせたフェムト秒パルス光を照射する方法[71]や、空間光変調器を用いた方法[69,72-75]により、蛍光収量を制御することに成功している。さらに生体系試料に関しても光反応制御の例が幾つか示されつつある。たとえば視物質レチナールの場合,2光子励起法によるシス-トランス光異性化の制御が報告されている[76]。本研究の主題である光合成反応に目を向けると、このような高度な光操作技術を駆使して、紅色光合成細菌のアンテナ色素蛋白複合体におけるカロテノイドからバクテリオクロロフィルへのエネルギー伝達の効率を量子制御しようとする試みが成功している[77]。中心波長525 nm,パルス幅30 fs のフェムト秒パルスの各波長での位相を空間光変調器により制御し、前述したRps.acidophila のLH2 複合体におけるカロテノイドからBchl へのエネルギー移動(ET)とカロテノイドの光励起状態(一重項励起状態)の内部失活(IC)をモニターしながら遺伝的アルゴリズムを構築することにより、IC/ET の比を1 から1.3 の範囲で制御できること、及び光の位相を?位相ずらすことによりこれら2つの状態をスイッチできることが報告されている。光合成反応のような複雑な系においてもコヒーレント制御可能であることが示されたことは、正に注目に値する。現在のところカロテノイドからBchl へのET の効率が減少する方向での制御であるが、本研究により開発した装置を用いて、複雑な多光子励起がETにどのように寄与しているのかに関する物理的背景が明らかになれば、光合成色素蛋白複合体という興味深い材料を、コヒーレント制御を試す一つの実験台とすることも可能では無いかと期待される。特に、励起エネルギー移動に直接関与するカロテノイドの一重項励起状態に関して、上述したとおり,著者らの時間分解能20 フェムト秒を切る時間分解分光測定の結果、新たな中間励起状態の実時間計測に成功するなど、その素過程の解明に関してもまだ検討の余地が残されている。