2007年[ 技術開発研究助成 (奨励研究) ] 成果報告 : 年報第21号

半導体テラヘルツ電磁波光源を用いた生体内組織観察システムの開発

研究責任者

田邉 匡生

所属:東北大学大学院 工学研究科 知能デバイス材料学専攻 助手

概要

1. はじめに
生体を支配している分子は単体では機能をもたず、周囲の分子との相互作用のなかではじめてその機能を有する。たとえば、DNA は4 つの塩基間における水素結合により二重らせん構造が形成され、タンパク質は水素結合により特徴的な立体構造をとることにより機能が発揮される。このような弱い分子間結合における振動エネルギーの大きさは周波数で考えるとテラヘルツ(1012Hz)領域にある。生体分子間の振動準位が多く存在するテラヘルツ領域における計測技術の開発は、タンパク質などの生体高分子がもつ機能の解明といった基礎医学ばかりでなく、腫瘍などを構成する分子間に固有の振動に基づき病巣の拡がりを診断するといった臨床医学に対しても重要である。
本研究では半導体結晶から発生する高出力なテラヘルツ電磁波(テラヘルツ波)を光源として、全反射減衰分光法(ATR 法)に基づき液体試料のスペクトル測定を行った。生体関連分子のテラヘルツスペクトルはテラヘルツ波光源の開発にともない世界中において測定されはじめている。しかしながら、水はテラヘルツ波の吸収が大きいので、脱水などの処理がなされた組織片について透過や反射といった測定がなされているにすぎない。生体分子がその機能を発現するためには水の存在が不可欠であり、生体内でのテラヘルツ振動モード及び分子構造に関する知見を得るためには水溶液中の分光測定が必要となる。そこで水分の影響を直接受けない全反射法に基づき、水溶液のテラヘルツスペクトルを観察できる計測システムを構築した。
2. テラヘルツについて
1957 年に「半導体レーザ」が西澤により提案され1)、1962 年に米国において実現した。しかしながら、半導体レーザによって得られる光波と従来の電波(マイクロ波)との周波数の間には大きなギャップが残されているままであった。そこで西澤は1963 年に半導体や誘電体など、種々の化合物が有する分子振動や格子振動(フォノン)がテラヘルツ周波数領域に存在することに注目し、フォノンを励起、振動させることによりテラヘルツ波の発生やテラヘルツ周波数の変換を行うという提案をした2,3)。この考えに基づき、1979 年に西澤と須藤は半導体GaP 結晶を使ったラマンレーザの発振に世界で初めて成功した4)。GaP 結晶中のフォノンをYAG レーザにより励起することによりラマン効果を発現させ、ラマンレーザを発振させた。1983 年にはGaP ラマンレーザを用いて12 THz のテラヘルツ波(3 W)を発生させた5)。半導体GaP を使ったラマン効果デバイスとしてその後、周波数可変テラヘルツ波光源のほか6-10)、光導波路型ラマンレーザ、光増幅器を開発している。これらのデバイスは超多重光通信用チャンネル選択増幅器や生体イメージング用光増幅器として開発を進めている。GaP 以外の半導体結晶としては図1 に示すようにGaSe を用いてテラヘルツ波を発生させている11)。
我々の研究グループではGaP 結晶から発生するテラヘルツ波を光源として、テラヘルツ帯のフォノン観測のための周波数自動掃引システム(GaP-Raman-THz 分光システム)を構築している12)。GaP-Raman-THz 分光システムを用いて測定した糖類のスペクトルを図2 に示す。糖類のテラヘルツスペクトルは室温にもかかわらず多数の良く分離された共鳴振動が観測される12)。これらの吸収線はアモルファス構造では現れない13)。分子間の側鎖や骨格、分子間相互作用などに帰属する吸収であることが考えられる。グルコースとデオキシグルコースのスペクトルに見られるように分子構造のわずかな違いが分子間振動に大きな影響を与えていることが分かる。従来からのフーリエ変換赤外分光法(FT-IR)やテラヘルツ時間領域分光法(THz-TDS)では見ることが難しい分子の欠陥(図2 中の矢印)や微細構造が検出できる12)。
核酸塩基のひとつであるシトシンのテラヘルツスペクトルには2.85 THz および3.39 THz の周波数にテラヘルツ波の吸収ピークを見ることができる。これらはGaussian03 を用いた分子軌道計算(B3LYP/6-31G レベルでの構造最適化と振動解析)によるとそれぞれは水素結合に基づく面内振動と並進振動のモードに帰属される。
GaP-Raman-THz 分光システムは周波数ごとのイメージング像を観測できるので、周波数を共鳴線に合わせれば特定の分子の分布に関する情報を得ることができる。大腸癌転移組織および正常組織を含む肝臓標本について、テラヘルツスペクトル・イメージング測定を適用している14)。癌組織と正常組織におけるテラヘルツ波の吸光度が異なる周波数を利用することにより、正常組織と癌組織の識別することができる(図3)。
3.1 テラヘルツ振動観察システム
(1) テラヘルツ分光システム
GaP 結晶を用いた近赤外光の差周波発生に基づくテラヘルツ波発生システム(GaP-Raman-THz 分光システム)の光学系を図4 に示す。YAG レーザー(1.064 μm)と光パラメトリック発振器(OPO)から発生される近赤外光(1.035-1.063 μm)を結晶性に優れたGaP 結晶において光混合する。OPO はYAG レーザの3 倍波(355 nm)をβ-BaB2O4(BBO)結晶において波長変換するレーザであり、BBO 結晶を回転させることにより、発振波長を掃引することができる。2 つのビームを平行からわずかにずらして入射することにより、近赤外光とテラヘルツ波がGaP 結晶中において位相整合条件(ノンコリニア角度位相整合)を満たす。OPO とは異なるCr:Forsterite レーザや半導体レーザを用いても同様にテラヘルツ波を発生でき、より簡便な機構でテラヘルツ波発生システムを構築できる。Cr:Forsterite レーザを励起光源とする分光システムはすべてが幅90 cm×奥行80 cm×高さ130 cmに収まり、汎用的な計測器としての利用が期待できる。励起光のエネルギーの高密度化により励起レーザのパワーは3W 程度に抑えることができ、通常の偏波保持ファイバーにより導かれる近赤外光を励起源とするテラヘルツ波発生が可能となる9)。
GaP 結晶中における近赤外光の差周波混合に基づき、広帯域(0.2-7.5 THz)において発生するテラヘルツ波は高出力であるため、検出器には液体ヘリウム冷却による極低温シリコンボロメータを必要としない。また、狭い線幅(500 MHz 以下)を有するので、フォノンの分光測定によるマクロ分子の微細構造の検出だけでなく、選択化学反応の励起光源など実用的な利用にも有利である。
(2) 全反射減衰分光法(ATR 法)
屈折率がn1 およびn2 の物質が接触している場合を考える。n1>n2 の条件において、光の入射角度が臨界角より大きいときにその光は全反射する。全反射において入射光のエネルギーの一部は物質n2 側にしみ出し、その光はエバネッセント波と呼ばれている。エバネッセント波は界面に沿って伝播する波であり、また電場振幅は深さの増加に従って指数関数的に減衰する。エバネッセント波の電場強度が界面でのそれに対して1/e に減衰する値を浸透深さと定義されている。エバネッセント波を利用して吸収スペクトルを測定する方法を全反射減衰分光法(ATR 法)と呼ばれている。フーリエ変換赤外分光法(FT-IR)による中赤外領域の測定において、溶液中電極表面における分子振動挙動の観測やOtto 配置との適用による高感度測定に用いられている方法であるが、テラヘルツ帯領域におけるATR 測定はその詳細についてはまだほとんど明らかになっておらず、測定結果もわずかに報告されているにすぎない。ATR 法の特長を活用することにより、テラヘルツ帯領域においてはテラヘルツ波の吸収が大きく、つまり透過度が低い液体などの試料についてスペクトル測定が可能となる。
ATR 法では内部反射エレメントであるATR 高屈折率のプリズムに試料(本報告においては溶液)を接触させることによりスペクトル測定を行う。全反射が起こる条件としてまずn1 >n2 となるようなプリズムが必要である。ATR 法は前述のように赤外領域における分光法のひとつとして一般的であり、その場合ではKRS-5(n1=2.4)、ZnSe(n1=2.4)、Si(n1=3.4)、Ge(n1=4.0)などがプリズムとして用いられている。テラヘルツ帯領域でATR 測定を行うためには、テラヘルツ波を透過しかつテラヘルツ領域の光に対して屈折率が大きいプリズムが必要である。テラヘルツ波を透過する代表的な物質には、ポリエチレン(n1=1.5)、テフロン(n1=1.4)、Si、Ge などが挙げられる。
ATR 法はエバネッセント波がプリズムと液体試料の界面を通過する際に生じる吸収(測定においては反射率)を測定することによりスペクトルを得る方法である。透過法は垂直入射した光が試料を通過する時に吸収される大きさを測定する方法である。どちらも吸収スペクトルが測定される方法であるが、両者をそのまま比較することはできない。これはエバネッセント波の液体試料への浸透深さが入射光の波長に依存し、より低周波数の領域において吸光度が増加するためである。両者を比較するためには浸透深さが一定となるよう、スペクトルを補正する必要がある。
1 回反射の場合においてエバネッセント波が試料の吸収によって失う光量率a と吸収係数αにはa=αde の関係がある。このとき、de はATR 分光計測における実効厚さといい、透過法によって測定されると仮定した場合の試料の厚さに相当する。実効厚さを用いると、吸光度A(=-logR, R:反射率)はA=αdelog eと表すことができる。吸収係数αが試料に固有であるので、ATR スペクトル計測における吸光度Aは実効厚さを考慮する必要がある。de は入射角が臨界角に近くなると急激に増大する。さらに、s偏光およびp 偏光のどちらの偏光におけるスペクトル測定も可能であるが、p 偏光における吸光度は常にs 偏光の場合より大きく測定することができる。また試料に大きな吸収が存在する場合、ATRスペクトルにおいても反射スペクトルと同様に異常分散に起因するスペクトルの歪が生じるためにKramers-Kronig 変換を必要とする。
3.2 実験結果
図5 に水、メタノールおよび水とメタノールの混合溶液のテラヘルツスペクトルを示す。反射率から計算される吸収スペクトルを示している。ATR プリズムには高抵抗Si 結晶を使用し、テラヘルツ波の偏光はp 偏光とする。テラヘルツ波のSi プリズムと試料の界面における入射角は臨界角の41 度より大きい43 度とした。ダブルビーム方式を採用することによりS/N 比を向上させている。測定は室温(293.5 K)にて、0.8~5.5 THz の周波数範囲において行なった。
水とメタノールはテラヘルツ帯において反射率が大きく異なることが見てとれる。水からの反射率はメタノールの混入により反射率は上昇する。そして、水のテラヘルツ吸収はメタノールの混入により減少する。ただ、メタノールが30 mol%含まれている水は2.2 THz 以上の周波数領域において反射率及び吸収係数が水のそれらと大きな違いが見られない。
液体は水素結合、van der Walls 力、あるいは疎水性相互作用といった分子間力により分子集団を形成していると考えられている。そのため、水とメタノールの長周期分子構造の違いがそれぞれのテラヘルツ周波数における反射率と吸収係数の違いに現れていると考えられる。さらに水とメタノールの2 つの液体を混合することにより吸収係数が変化している理由は、水にある一定量以上のメタノールを混合することで水本来の長周期分子構造の維持が困難になり、水とメタノールのそれぞれの分子が安定な分子群を新たに形成しているのではないかと推測される。図中にはテラヘルツ時間領域分光法(THz-TDS)におけるデータ(図中の黒丸●)を示しており、良い一致を示していることが分かる。さらに、1.5 THz 付近に存在することがわかっている水分子の水素結合における変角振動モードに帰属する吸収係数の変化を観察できていることが分かる。
水にぶどう糖(グルコース)を溶かした液体のテラヘルツスペクトルを図6(a)に示す。グルコースの添加により水のテラヘルツスペクトルが変化していることが見てとれる。グルコース濃度の増加により、反射率が2~4 THz において増加し、1.5 THz における吸収ピークは低波数側へシフトする。図6(b)には、グルコースおよびデオキシグルコースのテラヘルツスペクトルを示している。デオキシグルコースはグルコースの第2 炭素原子に結合している酸素が欠落している分子である。グルコースは比較的大きな分子であるが、酸素原子ひとつの欠落が反射率および吸収スペクトルに影響を与えていることが分かる。デオキシグルコースはグルコースと同様にエネルギー代謝のために生体細胞に取り込まれるが、悪性腫瘍などにおいては簡単に代謝されない。デオキシグルコースの悪性腫瘍におけるこのような特性を利用することによりPET 治療と同様、デオキシグルコースの吸収線の位置に基づく悪性腫瘍の局在部同定ができる可能性がある。
図7 はひとつの励起レーザを用いてGaSe 結晶から発生するテラヘルツ波によるイメージング像である。厚さ18 mm のポリスチレンに空いた5mm φの穴に満たされた内部の水を観察した。水が媒体の内部において浸透する様子を画像化することができる。このイメージングは励起光源としてレーザダイオードだけでなく、光ファイバーにより導かれる近赤外光やファイバレーザを用いることにより装置サイズを小型化することができる。ファイバーによる励起光の取り回しにより持ち運びが可能となるだけでなく、現在の光源では入ることのできない小さな隙間や体内へもテラヘルツ波を導くことが可能となる。
4. まとめ
水、メタノールおよび水とメタノールの混合溶液のATR テラヘルツスペクトル測定において、水とメタノールはテラヘルツ帯において吸収係数が大きく異なることが分かる。水からの吸収係数はメタノールの混入により減少する。糖水溶液のテラヘルツスペクトルでは吸収係数が糖の濃度による異なる。ATR 法を利用することで透過法では測定が困難であった溶液試料のテラヘルツスペクトルの測定が可能になることを実証した。
本研究で開発したテラヘルツ振動観察システムをカテーテルや胃カメラに内蔵することにより、生体内から組織片を採取することなく、組織のテラヘルツスペクトル情報がその場で得られるので低侵襲検査・診断ができる。たとえばスペクトル情報から摘出すべき腫瘍に特徴的な共鳴吸収ピークを検出することができれば、その周波数にテラヘルツ波を固定してプリズム(センサーヘッド)を生体内でスキャンすることにより腫瘍の拡がりについて知ることができ、摘出する範囲を最低限に留めることが可能となる。