1988年[ 技術開発研究助成 ] 成果報告 : 年報第02号

内耳よりの音放射に関する基礎的研究と臨床検査への応用

研究責任者

村田 計一

所属:東京医科歯科大学 難治疾患研究所 教授

共同研究者

細川 浩

所属:東京医科歯科大学 難治疾患研究所 神経生理学部門  助手

共同研究者

南 定雄

所属:東京医科歯科大学 難治疾患研究所 神経生理学部門  技官

共同研究者

菅澤 正

所属:東京大学 医学部 耳鼻咽喉科学教室  助手

概要

Ⅰまえがき
1970年代末にクリック音の後5~10ミリ秒から20~30ミリ秒にわたって音が内耳から外耳道へ放出される現象が発見されて注目を集め,以来色々な形の音放射現象が認められている。すなわち,自発的に持続的に音を放射する自発性耳音響放射,音刺激を加えると音刺激と同時に放射される誘発性同時音響放射,数ミリ秒遅れて現れる誘発性遅延音響放射,内耳への交流通電による音響放射等が挙げられる。此等の現象は,いずれも内耳には外来音によって振動するばかりでなく能動的に振動を引き起す機構が存在することを示唆しており,音の「きこえ」のメカニズムの上で重要な働きをしているものと思われる。又,放射音は内耳から放射されて来るため,内耳の活動状況,病変等臨床診断上意義ある情報を担っているはずであり,放射音を解析する事により非観血的な,内耳病変に関する検査法となる可能生がある。
いずれの耳音響放射も振巾が非常に小さくて20dBSPL以下であり,現用の音響機器で直接観察出来ない。このため本研究では先ず音響放射の観測測定装置を開発し,これを用いて音響放射の成因を生理学的に解析し,音響放射が音の「きこえ」のメカニズムの上で果たす役割意義を追求した。
これと共に,臨床的に健康耳,各種疾患耳での音響放射の実態,疾患と音響放射との相関を調査し,臨床検査法への応用を考えた。
Ⅱ研究の内容
1.耳音響放射測定記録装置の開発
外耳道へ放出された放射音を誘導するためのマイクロホン及び音圧較正のための装置については動物実験のため当研究室で開発し,従来より使用して来たものがそのまま利用できた。然し,無麻酔のヒトの為のものは新に開発しなければならなかった。当初高感度でS/N比が大きい1吋コンデンサマイクを使用したが,その重量のため装着具が大形となり皮膚との接着面が呼吸運動,循環拍動,体動等によりずれて雑音を発生し,又被験者にとって苦痛の種であった。此の困難点は,各部分を小さな耳栓の形にまとめ,ラテックス気嚢を利用して空気圧で外耳道内壁に軽〈圧着することにより解決した。
外耳道から誘導した放射音はマイクロホン雑音に埋もれて直接観察できないため, A/D変換し走誘導波を計算機でFFT解析し,周波数パワースペクトルを求めた。然しS/N比を向上する為64-100回スペクトログラムを加算平均する必要があり, FFTの演算時間に加えて補助メモリーとしてディスを使用した為,例へばヒトの自発性耳音響放射測定の1回の処理時間に40分以上を要した。この開放射音の周波数が変動する為恒常性が保たれず,加えて被験者は長時間に亘って絶対静止を強要きれた。幸い財団の支援によりFFTのハードウエア装置を入手し,計測時間を1図計測当り15秒にまで、短縮する事により初めて放射音の記録に成功した。
計測装置のS/N比の向上と感度の上昇に伴い,電波,電気的磁気的雑音等周囲の環境に由来する障害が現れたが電気的磁気的シールド,計算機ソフトウエアの手直し等により障害を除去し,現用の実用装置にまで向上した。
2. 耳音響放射の生理学的基礎研究
最近,有毛細胞の収縮蛋白質の存在が議論され,又外毛有細胞への交流通電により収縮伸長する事実が示きれる等,内耳附牛肉に能動的に振動する振動子の存在が問題となっている。能動振動子が存在すれは、'外来音による受動的な嫡牛肉の振動と能動的振動が干渉し,入力制御の役割を持つ事となり,受容器のセンサ一機能の理解が根本的に変わる重大な問題となって来る。従って音響放射の分析は重要な課題となって来る。然しながら各種の音響放射はいずれもヒトの耳で高率で、発現するのに対し,動物では観察きれないか,或いは非常に低い出現率でこれが動物実験による解析を阻んでいる。この中で交流通電による放射は比較的容易に動物実験で再現し得るので音響放射の動物モデルとして通電放射を取り上げ,その一般的な性質を解析した。
A,嫡牛交流通電による外耳道への音の放射
鍋牛内へ周波数FClの交流を微少電極で嫡牛中央階に通電すると外耳道内音のスペクトル分布には,周波数Fc1時に2Fc1にスペクトル成分が認められた。この交流通電と同時に,周波数Ftの純音を負荷する(T/C刺激)と外耳道でFt+Fc,Ft-Fcの周波数の側帯波成分が観察された(図1) 0 FC2の交流を同時に通電する(C/C刺激)とT/C刺激と同様にFC2-Fc1,FC2 + FC1の側帯波成分が観察された。
T/C刺激の場合,側帯波の音圧は外耳道に負荷した純音の音圧の上昇に比例して増大したがFc音の音圧には変化がなく, C/C刺激の場合にも,同様に側帯波音の音圧は通電電流量に比例して増加した。
B. 放射音の周波数特性
放射音の周波数特性は通電部位に依存する。第2回転へ通電してT/C刺激の負荷純音周波数を変えた場合,側帯波音の音圧は負荷純音が1.5kHzで極大を示し, 1.5kHzを超えるとCMの振巾と共に次第に減少した。第3回転への通電では極大値は0.7kHzで観察され,第2回転の場合より低かった。C/C刺激のいずれか一方の通電周波数を変えると,負荷純音周波数Ftを変えた場合に見られる鋭いピークは見られず,広帯域に亘って平坦な周波数特性を示した。周波数特性の高城カットオフ周波数は第2回転通電の場合約3kHz,第3回転通電で約0.8kHzで,やはり第3回転通電による側帯波の出現周波数の方が低音側に偏った。
C. 交叉性オリーブ蝸牛束(COCB) の効果
COCBを第4脳室底で電気刺激するとT/C及びC/C刺激いずれの場合でも,側帯波音の音圧は, COCB刺激電圧に応じて減少し最大5dBの減少を示したが, Fc音の音圧は変化しなかった。COCB刺激条件を一定に保弘通電量を変えると側帯波の音庄は通電量に比例して増加するがCOCB刺激により通電量にかかわらず一定の減少率を示した。T/C刺激の負荷純音の周波数Ftを変えた場合の側帯波の音庄もFtの周波数にかかわらず一定の比率で減少した。COCBを第4脳室正中溝に沿って切断するとT/C刺激による側帯波の音圧が1-2dB増大し, COCB刺激効果も消失した。又, COCBを冷却すると,切断による遮断と同様に側帯波の音圧のI-2 dBの増大が起こり, COCB刺激効果も認められなかった。局所温度が元に戻るにつれてCOCB刺激が回復し,側帯波の音圧も元の音圧に戻った,この開通電周波数音はCOCBの刺激遮断により全く影響を受けなかった。
D. 附牛の機械的,薬物的阻害と音響放射
強音負荷により側帯波音の放射はCMの振巾と同様抑圧きれ,やがて回復するがさらに重度の音響外傷では側帯波の放射は見られなかった。然し通電周波数音の放射の減少は極めて少なかった。
フロセマイドを負荷すると一過性に側帯波が減少し,約30分後には回復した。この経過はCMの振巾と平行していた。又慢性カナマイシン中毒の標本では,側帯波は観察きれなかったが, Fc音は微弱ながら検出できた。
KCl 溶液を動脈内に注入すると心臓が停止するが,側帯波の音圧は, CMの振巾と共に,心停止直後急激に減少し,引続き, 10-15分間約10dB回復した。その後再び穏やかに減少し,心停止の60-90分後には,先ず側帯波音が次に通電周波数音が雑音レベル以下に減少した。しかし死後3時間経過しても,周波数を選ぶとFc音が微弱ながら検出きれることがあった。
3. 自発性耳音響放射の臨床的研究
耳音響放射は内耳への入力音響を中枢神経系に送るための符号化の過程で内耳で発生するものである。従って耳音響放射は耳疾患,特に,内耳の受容器の異常にかかわる感音性難聴等の情報を担って体外に放出されており非観血的に内耳の受容器の状況を知る臨床検査として利用出来るとの前提に立ち, 自発性音響放射(SOAE)を選んで,正常耳,難聴耳における音響放射の分布,疾患と音響放射の聞の相関を調査した。
まず,正常聴力を持った有志と様々な原因による内耳性難聴者に対するスクリーニングを行った。その結果はオージオグラム上難聴を認めた症例ではSOAEは出現せず,正常聴力者においては,人数で33%,耳数で25%にSOAEを認めた。SOAEが異なった周波数で同一耳より多発している例(最大5個)も認められた(図2)。以上を検討した処, SOAEの出現の条件は,少なくともオージオグラム上250-4000Hzで闇値上昇を認めないことである。又若年者,女性で出現率が高かった。以上からSOAEは正常に近い充分な内機能を要することは判明したが,正常機能に伴うものか,微細な障害により生ずるものか今後の課題である。SOAE陽性者の一部に微細な内耳障害を示す例が存在し,いわゆる無難聴性耳鳴に多発傾向があり,内耳障害の鋭敏なモニターとなり得る可能性があるが,症例も少なく,検討を重ねたい。
次いで, SOAE陽性者に外来音の負荷実験を行った。SOAEは外来音負荷で抑圧され消失する。外来音があるレベルまでは抑圧効果は少なしそのレベルを超えると抑圧は急速に増大して, SOAEは消失するという非線型性を示した。又,抑圧は周波数選択性を持っており,SOAE近傍ほど抑圧効果が大きかった。この選択性を利用して等抑圧曲線を作成した処,聴、神経の関値曲線の特徴周波数周辺と極めて類似していると共に,そのQ!Oは100近くに達していた。以上の結果はSOAEは基底板振動に密接に関与すると共に,その局所において何らかの機能失調が生じていることを示唆している。嫡牛の能動性を説明する仮説として外有毛細胞の関与する基底板振動のActive feed back modelが提唱きれているが,我々の結果は,このmodelのシュミレーションと極めてよく一致しており実証困難な内耳modelの間接的照明となろう。
SOAEの動物の出現率は低く,比較的多いというサルでも1%前後であり,ヒトに関するデータを集め,検討することで本質にせまってゆく他ない。
Ⅲ成果
耳音響放射の解析には動物実験が不可欠であるにかかわらずヒトを除いて,動物での音響放射の発生率は非常に低い。或いは全〈放射が見られない。この為本研究が音響放射の動物モデルとして取り上げた交流通電による放射が単なる物理現象であるか,生物現象であるか,代謝を必要とする現象であるかという点が重要な問題であった。
フロセマイド投与,一過性低酸素状態,強音負荷の際の可逆的な音響放射の低下,及びこの聞の聴力の低下並びに心停止後の音響放射の消失等の現象はいずれも我々が観察した音響放射が代謝を必要とする生物現象である事を示している。側帯波の放射は通電電流及び負荷純音の音圧に比例し,側帯波音の音圧,周波数にかかわらずオリーブ嫡牛束の中枢性抑圧により一定の割合で抑制された。此等の事実は通電周波数の振動が基底膜を振動させ負荷純音と干渉し,基低膜の非線形性により側帯波が発生し非線形性は代謝により維持きれている事が明らかになった。更に腕牛は機械―電気変換と共に電気―機械変換を行う両方向性の変換機構を構成している事が明らかになった。
臨床的な自発性音響放射の調査では正常聴力の33%に放射が認められ,若年者,女性に高率であり,聴力損失の無い事が前提であった。しかし難聴を伴わない耳鳴に多発する傾向があり内耳障害を反映する敏感なモニターの性質を持つ事が明らかになった。
IV あとがき
耳音響放射のための装置の開発,放射の生理学的研究及び、臨床的調査のいずれにおいても当初の計画における予想仮定が幸いにも適中し研究は順調に進展し,当面の目的を達する事ができた。然し取扱った対象は各種音響放射の一部に限られ,現時点を出発点として更に努力しなければならないと考えている。此の間,印象深かったのは研究用機器の進歩と研究効率の問題であった。本助成申請当時,所有する計算機による制約のため1回計測に約45分を要した為, 自発性音響放射の周波数がその聞に変動し,放射を検出する事ができなかった。助成金により導入した新測定器の利用により,その所要時間が数十秒に短縮きれ,初めて検出可能となった。