1996年[ 技術開発研究助成 ] 成果報告 : 年報第10号

光音響分光法による高次生体機能の非侵襲的観測・評価に関する研究

研究責任者

松田 甚一

所属:長岡技術科学大学 工学部 教授

共同研究者

田中 隆一

所属:新潟大学脳研究所 教授

共同研究者

満渕 邦彦

所属:東京大学先端科学技術研究センター 助教授

概要

1 はじめに
近年,医学の分野において,患者に負担を与えず非侵襲的に生体機能を検査,診断する方法が強く望まれている。現在,このような方法の例として,医用赤外線サーモグラフィが広く知られている。しかし,この赤外線サーモグラフィでは,生体内における赤外線の減衰が非常に激しいため,赤外線カメラにより得られる生体のサーモ画像は,皮膚表面から約0.5mmの深さの温度情報のみを捉えているにすぎない。このため,生体深部機能を詳細に診断することは困難である1>。そこで,筆者らは,この問題点を克服するために,従来より固体試料などの微量化学分析法として知られている光音響分光法(Photoacoustic spectroscopy ; PAS)を新たに生体計測に適用し,生体深部情報の非侵襲的な計測を試みている2)。本報告では,まず,光音響分光法の原理について述べ,そして,その原理を応用した生体用光音響分光装置について述べる。次に,生体ファントムおよびラットによる基礎実験から,本装置による計測可能深さについて検討する。最後に,臨床基礎実験として運動負荷実験,冷水負荷実験を実施し,これらの結果から,本手法により,生体機能として心拍数,呼吸数などの血流動態が捉えられていることを示す。
2 光音響分光法の原理
図1に光音響分光法の原理を示す。光音響分光法は,光熱変換現象を利用した分析法の一種であり,光熱変換現象とは,光を試料に照射したとき,吸収された光エネルギーの一部が熱エネルギーに変換される現象である。このとき,レーザ光をパルス変調すると,光熱変換による発熱も光変調周波数と同じ周期で断続的となる。この発熱によって,次の2種類の過程で音波が発生する。一つは,熱源の断続的な発熱による熱波が試料表面まで伝わり,周囲の空気を断続的に温め,空気中に疎密波が発生する。一方,断続的な発熱により繰り返される試料自身の熱膨張,収縮による弾性波が試料内部に発生する。これらの音波の発生を光音響効果と呼び,光音響効果によって発生した音波を光音響信号と呼ぶ。これら2種類の光音響信号を発生要因別に,熱波による光音響信号,弾性波による光音響信号と呼ぶことにする。光音響分光法は,光音響信号をマイクロフォンにより計測することによって,試料の光吸収特性や熱的,弾性的特性などを計測することができる。また,レーザ光の光変調周波数を変化させることにより,計測可能な深さを変化させることができ,さらに,光源の波長を変化させることにより,光吸収特性の違いから測定対象を選択することが可能であるなどの特徴がある3)4)。
3 生体用光音響分光装置
3.1 生体計測用セル
通常の光音響分光法を利用した固体試料の物性計測では,密閉された容器すなわち密閉型セルの中に試料をいれ,試料から発生する容器内部の音波をマイクロフォンにより検出する。しかし,この構造では,生体計測を行なうことはできないため,生体の皮膚表面に密着させるだけで測定ができるような開放型セルが必要となる。また,生体計測における背景雑音として,生体から発生する心音や筋肉の振動などの生体雑音とセル内部に侵入する外部からの雑音が問題となる。そこで,図2に示すような開放型でなおかつ共鳴差動型の生体計測用セルを開発した。このセルは,生体から発生する光音響信号を効率よく検出するために,2本のヘルムホルツ共鳴管から構成されており,各共鳴管の上端に高感度マイクロフォンが設置されており,下端は開放となっている。一方の共鳴管は計測用セルであり,背景雑音を含んだ光音響信号を検出する。もう一方は参照用セルであり,レーザ光を照射せず,背景雑音のみを検出する。そして,両共鳴管からの信号の差をとることで,背景雑音が除去された光音響信号が検出される。この生体計測用セルの共鳴周波数は1350Hzであり,その周波数特性は,共鳴周波数の整数倍の周波数でピークをもつ。
3.2 装置構成
図3に生体用光音響分光装置の構成を示す。計測装置は,大別して光源部,検出部そして信号処理部から構成されている。光源としてArレーザ光(波長514nm),検出器には生体計測用セルが用いられている。まず,レーザ発信器から出たレーザ光は,音響光学変調器(AOM)によりファンクションジェネレータで設定した周波数で変調され,スリット,レンズ等の光学系を経て,光ファイバにより生体計測用セルに導かれ,生体皮膚表面に照射される。そして,生体計測用セルにより検出される生体から発生する光音響信号は,ロックインアンプに差動入力され,光変調周波数で同期検波を受けて必要な信号成分だけが取り出され,コンピュータにより信号処理される。
4 生体ファントムによる基礎実験
4.1 2 層生体モデル
生体から発生する光音響信号を検討するために,ここでは,生体を図4に示すような簡単な2層生体モデルに置き換えた。このモデルの上層部は,皮膚,筋肉などの層に対応し,生体ファントム層として市販のハムを使用しており,Arレーザ光に対する光吸収はあまり強くない。そして,下層部は血管などの血液が存在する層に対応し,血液層として天然ゴムを使用しており,Arレーザ光に対して強い光吸収を示す。このモデルでは,上層部および下層部の両層から光音響信号が発生するが,このうち血液層に対応する下層部からの光音響信号が測定対象となる。
4.2 計測可能深さ
光音響分光法は,前述のように,光変調周波数によって計測可能深さが変化する。この計測可能深さを明らかにするために,生体ファントムによる実験を行った。
4.2.1 実験方法
測定試料は,図4に示す2層生体モデルを用いた。光源はArレーザを使用し,光出力は試料表面で5.OmWとした。そして,光変調周波数を変化させて光音響信号を測定した。まず,天然ゴムのみで測定を行い,次に天然ゴムの上に生体ファントムであるハムを重ねたもので同様に測定を行なった。生体ファントムの厚さは生体ファントム無しの状態0.Ommから0.85mm毎に5.95mmまで変化させた。
4.2.2 実験結果
図5に計測可能深さの実験結果を示す。ここで,正規化光音響信号強度は,生体計測用セルの周波数特性で生の光音響信号強度を正規化したものである。図5(a)において,例えば,生体ファントムの厚さが2.55mmの場合は3.5kHz付近で,3.40mmの場合は2.OkHz付近で周波数特性の傾きが変化している。この傾きの変化している周波数を臨界光変調周波数と呼ぶことにする。この臨界変調周波数における傾きの変化は,生体ファントムとゴム7J'ら発生していた光音響信号が,光変調周波数を高くすることによって,生体ファントムのみからの光音響信号に変化したことを示している。すなわち,この時の生体ファントムの厚さが,その臨界光変調周波数における計測可能な深さと推測することができる。図5(b)に,臨界光変調周波数に対する生体ファントムの厚さを示す。例えば,光変調周波数を3.5kHzとすれば2.55mm,2.OkHzとすれば3.40mmまでが計測可能な深さといえる。使用する生体計測用セルの共鳴周波数が1350Hzであるため,これを光変調周波数とすると,計測可能深さは約4.Ommであることが示された。
5 ラットによる動物実験
5.1 対象及び方法
測定対象は,図6のような腹腔内麻酔をかけたラット(雄,体重420g)の腹部とした。光音響分光装置の光源は,Arレーザ(波長:514nm),出力5mW,また,変調周波数は2500Hzである。この実験では,まず,無負荷安静状態で20分間,次に,血管拡張剤PGE1を尾から0.6ml/hの流量で投与しながら40分間,最後に,再び無負荷安静状態で20分間,それぞれ計測を行った。Arレーザ光は,生体内を数ミリ以上透過でき,血液中のヘモグロビンに吸収されやすいことが知られている。また,PGE1には,生体の比較的径の太い血管,つまり,深部の血管に対して拡張作用があるとされている。従って,PGE1負荷時の光音響信号には,深部の血管の血流動態が反映されると考えられる。
5.2 結果
PGE1負荷テスト中におけるラット腹部の温度及び環境温度の変化を図7(a),(b)に,また,光音響分光装置で計測された時系列光音響信号とサーモグラフィで得られた時系列温度に対し,スペクトル・ヒストグラム法を適用した結果を図8(a),(b)にそれぞれ示す。まず,図8(a)の光音響分光装置による結果について述べる。測定開始直後から10分後までの無負荷安静時には,いずれもよく似た分布形状となっており,0.25Hz近傍にピークが生じていた。続いて負荷開始10分後には,すでに0.25Hz付近のピークは消えているものの,まだ大略の形状は安静時のそれとよく似た傾向を示している。さらに負荷を継続して行くと,安静時の分布との違いがはっきりと現れて,0.1Hz近傍に特徴的なピークが生じている。その後,負荷を終了し,10分経過すると再び,スペクトル分布が高周波域に推移し,無負荷安静時の分布形状に近づいている。つぎに,上記の実験で同時に測定したサーモグラフィの結果について述べる。図8(b)から,PGE1負荷を行なうと,若干,スペクトル分布は低周波域に推移するが,スペクトル分布は,安静時のそれと似ており,負荷前後のそれらとの間には著しい差異は認められなかった。以上のことから,PGE1負荷テストを行った結果,光音響分光装置による生体計測では,深部の生体情報が得られることが明らかとなった。
6 臨床基礎実験
6.1 測定条件
実験で使用する光源はArレーザ光とし,生体皮膚表面に照射するレーザ光の光出力は生体皮膚の安全性を考え,皮膚の最大許容値以下である3.OmWとした5)。被験者は健常な男性(23歳)である。図9に測定部位を示す。測定部位に右手掌部中央を選んだ理由として,周囲の環境に対して血流動態の反応が比較的敏感な部位であることが挙げられる。表1に臨床基礎実験の測定条件を示す。
6.2 運動負荷実験
6.2.1 実験方法
運動負荷による心拍数や呼吸数の変化を捉えることができるかを検討するために,実験は無負荷安静状態で4分間測定した後,5分間の階段昇降による運動負荷を行い,そして,再び無負荷安静状態で6分間測定を行った。
6.2.2 結果
図10に測定された光音響信号のFFTによるスペクトル解析結果を示す。上段から測定開始直後,運動負荷直前,運動負荷直後,運動負荷終了5分後の測定結果である。また,運動負荷後の被験者の心拍数および呼吸数の増加を確認している。図10において,運動負荷を行う前と運動負荷終了5分後の無負荷安静状態では,心拍数に対応する1.OHz付近のスペクトルピークが,はっきりと現れており,運動負荷直後の心拍数が増加した場合にも,スペクトルピークが心拍数に対応する周波数に推移していることがわかる。また,0.3Hz付近のスペクトルピークは呼吸数に対応していることがわかり,運動負荷直後,呼吸数が増えた場合にも呼吸数に対応するスペクトルピークが高周波側に推移していることが確認できる。この運動負荷実験の結果から,光音響分光法によって,心拍数や呼吸数などの血流動態を捉えられることが確認された。
6.3 冷水負荷実験
生体に対して局部的な冷水の負荷を行うと,熱が奪われるのを防ぐため,冷水負荷されている部位の血管が収縮し血流量が減少する。しかし,さらに冷水負荷が続くと,負荷部の温度を一定に保つために血管が拡張され血流量が増加する。このような血管運動は交感神経によって支配されており,例えば,左手掌部を冷水負荷し血管収縮,拡張作用が起こると,反対側である右手掌部にも血管収縮,拡張作用が起こる6)。
6.3.1 実験方法
冷水負荷による血流動態の変化を捉えるために,医用赤外線サーモグラフィと光音響分光装置で測定し,両者の診断能力の比較を行った。実験は,無負荷安静状態で4分間,冷水負荷として4℃の冷水に左手掌部を浸し2分間,そして,再び無負荷安静状態で4分間の合計10分間とし,冷水負荷を行った左手の反対側の右手掌部を測定した。
6.3.2 結果
図11に測定された光音響信号のスペクトル解析結果を示す。図11(a)は測定中の被験者の右手掌部の温度変化を示している。ここで,左手が冷水負荷されるのと同時に,負荷されていない右手の温度が下がり,負荷が終わると温度が回復していくのがわかる。この冷水負荷されていない右手の温度の低下は,冷水負荷により起こる左手の血管収縮が,交感神経により右手にも起こっているためと考えられる。そして,図11(b)はサーモグラフィと光音響分光法により測定された信号に対してFFTによるスペクトル解析を行った結果であり,上段から冷水負荷開始前の無負荷安静状態,冷水負荷状態,冷水負荷終了後の無負荷安静状態を示している。まず,サーモグラフィと光音響分光法の結果を比較すると,サーモグラフィの場合,測定全体を通じて0.3Hz以下の周波数成分をもたず,1.OHz付近にピークをもつのに対して,光音響分光法の場合には,0.3Hzと1.OHz付近にピークをもち,0.3Hz以下の周波数成分も捉えていることがわかる。これより,サーモグラフィは,皮膚表面付近の血流動態を捉えているのに対し,光音響分光法は,サーモグラフィに比べて,より生体深部の血流動態を捉えていると考えられる。次に,サーモグラフィによる結果と光音響分光法による結果は共に,冷水負荷状態では,無負荷安静状態に比べて,スペクトルの分布がより低周波域に推移していることがわかる。これは血管収縮運動により血流の動きが制限されるため,高周波成分が減少し低周波成分が増加するものと推測される。また,冷水負荷による反応には個人差や体調による差などがあり,どのような反応が起こっているかなどは推測でしかわからない。しかし,冷水負荷の効果がスペクトルの変化として現れているのは確かであり,光音響分光法により交換神経による血管の収縮拡張作用を捉えている可能性がこの実験から確認された。
7 むすび
光音響分光法による生体情報計測の基礎検討として,まず,生体ファントムによる基礎実験を行ない,2層生体モデルによる結果から,計測可能深さについては,光源としてArレーザ光を使用し,光変調周波数を1350Hzとした場合,約4mmの深部計測が可能であることを示した。また,ラットを用いた動物実験結果からも,深部の生体情報が得られることを明らかにした。次に,臨床基礎実験として運動負荷実験,冷水負荷実験を行ない,その結果,光音響分光法でArレーザ光を使うことによって,生体機能,例えば,心拍数,呼吸数などを反映した血流動態の変化が捉えられ,そして,交換神経系の反応などが捉えられる可能性を示した。以上の基礎実験より,光音響分光法による生体深部情報計測の可能性を確認することができた。
今後の課題としては,光音響分光法で捉えられているスペクトル分布と生体機能との対応関係を明らかにすることを考えている。