1996年[ 技術開発研究助成 ] 成果報告 : 年報第10号

光ピンセットを用いて細胞膜蛋白分子間の相互作用力を計測する技術

研究責任者

辰巳 仁史

所属:金沢工業大学 バイオ・化学部  教授

共同研究者

片山 芳文

所属:東京医科歯科大学 難治疾患研究所 神経疾患研究部門 教授

概要

1 まえがき
光ピンセット(レーザートラッピング)とはアシュキン(A.Ashkin,1986)1)によって報告された新しい光学技術である。光の放射圧を用いて50μmほどの大きさの細胞からそれよりずっと小さい微粒子(40nmの金コロイド粒子)を捕まえ自由にその位置を操作することができる。またレーザー光を用いるため微小領域に集光することによって,目的の粒子にのみ力を非接触で作用させることができる。生物試料(細胞や細胞の部分構造)の操作など光ピンセットの応用例が報告されはじめているが,神経科学の領域での応用研究は少なく,今後広がっていくものと考えられる2隅。金コロイド粒子により標識された膜蛋白分子の光ピンセットによる捕捉と操作は,分子レベルでの蛋白分子の操作と運動の計測記録が行えるということで極めて重要な技術になると考えられる。光ピンセットの開発と応用は物理学の領域でなされ,光ピンセットによる中性粒子の捕捉と極低温への冷却が行われている。これについては優れた解説がある4)。
本稿ではまず光ピンセットの動作原理について触れ,本研究で製作した光ピンセットと光ピンセットの効果を測定するための画像処理光学顕微鏡について述べる。最後に蛋白分子の運動について光ピンセットで力を作用させた場合の実験結果と膜蛋白分子に作用する力の見積もりについて研究成果を述べる。
2 内容および成果
2 1 光ピンセットの動作原理
光ピンセットの動作原理について,光の集光による粒子の捕捉のしくみについて発展の歴史もふまえて簡単に述べる。光がエネルギーを持っていることはよく知られている。このエネルギーが熱に変わることは普段の生活でも体験することができる。一方で光は質量を持たないが運動量は持っている。光が物体にあたるとその衝突によって小さな力を生じるのは,光の運動量の変化(速度ベクトルの方向の変化)が起こるためである(図1a)。この力は,放射圧(radiation pressure)と呼ばれる。放射圧が極めて小さいことはマクスウェルの理論から推定され,レーザー光線の出現以前に実験的に証明されていたが,その応用研究はほとんど行われなかった。1960年にレーザー光線が発明され,それ以前とは比べ物にならないほど強い単色光を用いた光の放射圧の研究が可能となった。またレーザー光のエネルギー分布は単純な発振モードではガウス型で,中央が高いエネルギー分布をもつベルの形をしている。レーザー光はほぼ平行光線であるため,光を理論限界に近い約1波長の半径に収束させることができる。アシュキンが例を示しているように,1ワットのレーザー光(波長500nm)を波長と同じ大きさの半径をもつ粒子に集光し粒子が完全に光を反射した場合には,10_3ダインの力を発生する,この粒子の比重が1である場合にはこの力は重力の100万倍の大きさである。粒子が完全に光を反射する場合や,粒子が透明で光との相互作用が屈折や回折だけの場合,レーザー光のエネルギー吸収による大きな熱発生と,粒子の周りに存在する流体の熱発生に伴う対流を考える必要はない。光ピンセットの初期の研究の関心事は上記の熱発生とそれにより発生する熱対流現象と,光の放射圧により発生する現象との区別であった5)。また熱発生の問題は,生物現象に光ピンセットを応用する場合でも問題である。
熱の拡散を効率良く行うため水の中に透明な屈折率の大きい粒子をおいてレーザー光をあて粒子の動きを観察する実験が1970年ごろから行われ,粒子が光の放射圧により光線の方向に移動する様子が観察された。また粒子はレーザー光束の中央部のエネルギーの高い方向に引き寄せられながら移動することが観察された。それは進行方向にたいして粒子の外側では弱い光による屈折が,内側では強い光による屈折が起こっているため,内側へ向かう力のベクトルの大きさが外側へ向かう力のベクトルを上回るためである。アシュキン等は2本のレーザー光を向かい合わせに照射して巧妙にレーザー光の光路を設定すると粒子の3次元的捕捉が可能であることを示している5)。しかし,レーザー光による粒子の捕捉は,1本のレーザー光を使うだけで可能であることが,その後の研究で明らかになり,広く使われている。その原理を簡単に図1に示す。
図1aに示すように光が反射した場合は,反射面を押す方向に光の放射圧は作用する。一方図1bに示すように光が屈折により曲げられた場合,垂直方向の運動量を考えるとそのベクトルの変化分に相当する運動量を保存するように屈折点を下方向に押し下げる。この考えを図1cの場合に適用する。開口数の大きいレンズでレーザー光を集光すると,光の屈折に伴う光の運動量の変化から発生する光の放射圧が負の方向つまり光の向かっていく方向の反対方向に発生する(図1cにベクトルFyを示す)。この成分の大きさは図1cの角(θ)の大きさに依存する。よって開口数の大きいレンズを用いて集光することが必要である。この負の方向の力のベクトルのために粒子が光の焦点の方へ引き寄せられると,今度は斥力が発生し粒子を光の進行方向へ押しやろうとする。この二つの力と物体にかかる重力のつりあったところで粒子は捕捉される。また光はガウス型のエネルギー分布を持っているために粒子の位置が光束の中心から外れた場合,粒子は光束の中心に引き寄せられる。よって,原理的には球形をした粒子の3次元的捕捉が可能となる。
2 2 光ピンセットの製作とマルチ計測顕微鏡への組み込み
本研究において製作し培養神経細胞の研究に使用しているレーザー光ピンセットの構成を図2に示す。光ピンセットの構成のための土台となる装置は,ビデオ強化型微分干渉顕微鏡である。ビデオ強化型微分干渉顕微鏡とは,微分干渉顕微鏡の映像をビデオとそれに付随する画像強調装置を用いて観察記録する装置である。レーザー光を集光している様子を直接肉眼で観察する事は危険でありテレビ画像を使った観察が中心になる。また,光ピンセット効果により捕捉できるものは極めて小さい粒子であるため,ビデオ強化型微分干渉顕微鏡強による観察が必要となる。
このビデオ強化型微分干渉顕微鏡装置に落射蛍光観察のための照明光路を加える。この落射蛍光の照明光路にレーザー光を導入し開口数の大きい対物レンズによりレーザー光を集光し,細胞あるいは細胞の小片に照射すると光ピンセットとして作用することが観察される。Zeiss社の水浸レンズ(63倍/開口数1.2)あるいは株式会社ニコンの対物レンズ(60倍/開口数1.4)を使用し集光すると,光ピンセット効果が発生した。
光ピンセットのための光源としては種々のレーザー光源が使用され報告されている。本研究ではヘリウムネオンレーザー(10mW),アルゴンクリプトンレーザー(100mW)を使用した。レーザ光の出力は数mW程度で光ピンセットの効果をみることができた。レーザ光の出力をあげれば捕捉力は高まるが,使用している光学系および生物標本がレーザ光で受けるダメージを考慮する必要がでてくると思われる。レーザ光はビームエクスパンダーを用いて光束を広げたのちに,対物レンズに導いた。これは対物レンズの開口数を有効に利用しレーザ光線のエネルギーを小さい領域に集光するためである。またエクスパンダーによりビームの集光点を微調整することができ,微分干渉像の観察焦点面とレーザの集光点を一致させることができた。落射照明のダイクロイックミラーは赤反射ミラー(赤い光を反射し,紫から緑にかけての可視光を透過させるミラー)に置き換えられている。以上の装置でレーザ光を標本に照射し光ピンセットとして作用させた。光ピンセットにより捕捉された標本の微分干渉像はこの赤反射ミラーを通り抜けてレーザ光防御光学フィルター(赤色を10万分の1に減衰)を通過し接眼レンズ及びビデオカメラに導かれた。そして光ピンセットの効果が発生している事を確認することができた(この場合,図3に示すようにレーザ光自身は観察されない)。レーザ光の集光条件などの検討のためには100分の1の防御フィルターが有効であった。この場合弱いレーザ光を観察することができる。より長波長側のレーザ光(YAGレーザー1064nm)を用いると,生物学的ダメージを少なくできると想像できるが,光の集光条件などは赤外線カメラを使用しなければ確認できないなどの理由から,本研究では使用をみあわせた。
本研究ではさらに光ピンセットの作用点を視野の中で移動させるための光学系を構成した。瞳転送光学系を用いると光学的に対物レンズの瞳をそれと共役な点に移動させる事ができた。共役位置に遠隔操作できるミラーを置く事で,光ピンセットの作用点を顕微鏡視野の中で自由に移動させる事ができた(図2の左下2枚のレンズが瞳転送系レンズ)。
2 3 光ピンセットの捕捉力の評価
ストークスの定理を応用した光ピンセットの捕捉力の評価の方法とその結果について述べる。ほぼ球体の形状をした細胞の断片やラテックスビーズを光ピンセットで捕捉し,ステージをスライドし,球体が流れの中に留まっている状態を作り出す。流速を上昇させ,球体が捕捉から開放される最大流速(v)を求める。この値と流体の粘性(η),球の半径(d),から捕捉力の最大値を求める。これらの値をストークスの式(F;6πdηv)に代入し光ピンセットの最大捕捉の推定を行った。本研究では,レーザービームを左右に移動させることでも同様に最大離脱速度(v)を求めることができ,光ピンセットの最大捕捉力を推定した。細胞の断片やラテックスビーズ(直径0.9μm)を,光ピンセットで捕捉し光ピンセットの集光点を左右に移動させて,光ピンセットによる捕捉状態からラテックスビーズが離脱する臨界速度を計測し,光ピンセットの捕捉力の評価を行った。その結果ラテックスビーズでは50μm/sの速さであった。これから光ピンセットの捕捉力は約0.5pNであることが推定された。
2 4 光ピンセットの神経科学への応用
光ピンセットにより酵素分離直後の浮遊神経細胞を移動することは容易である。図3Aでは,画面右端にある小さい細胞を光ピンセットによる捕捉を行っている。ステージをY方向(図では下方向)にスライドさせているので中央のカバーグラスに接着した大きな神経細胞は,ステージの移動にあわせて下方向に画面を動いているが,右端の小さい細胞は光ピンセットによる捕捉を受けて,画面の中で留まっている(図3B)。今回の研究から,比較的小型の細胞を捕捉する事が容易である事が判明した。大きな細胞では,顕微鏡の振動などによる溶液の揺れで,細胞にかかる力が,光ピンセットの捕捉力を上回ってしまう事があり,細胞は捕捉から逃れた。このように光ピンセットの捕捉力は小さいため,培養皿の底床に接着した細胞をひきはがして移動させることは一般には不可能であった。細胞内小器官(細胞内小胞体など)への力学的作用をおよぼし移動させることも可能であった。光ピンセットにより浮遊状態のフィロボディアの先端を無標識で捕捉する事ができた。顕微鏡のステージをx方向に動かすとフィロボディアを直線状に引き伸ばす事ができた(図3CD)。フィロボディアは神経成長円錐(図4A,以下に述べる)から伸びる細胞構造でシナプス形成において神経細胞が相手の細胞を探索するとき,センサーとして働く可能性が示唆されている。このセンサー部を任意の位置に移動できる事は,神経科学の研究にとって有用な研究手段を提供できると考えられる。
膜蛋白分子の捕捉と移動に光ピンセットを用いることは,特に重要な応用である。光ピンセットの能力を最大に生かすには,光学的測定に有利な偏平な標本を使うことが第一に重要である。発生過程の神経細胞や培養神経細胞の神経突起の先端には成長円錐が観察される。神経成長円錐は偏平な細胞構造で運動性が高く,神経突起伸長に必要な認識物質の識別を行い伸長方向を決定すると考えられている(図4A)。ラット培養海馬神経細胞の神経成長円錐の膜蛋白分子に,直径15~40nm(ナノメートル,10億分の1メートル)の金粒子を付着させると金粒子を電子顕微鏡によって観察できる(図4B,矢印)。この金粒子を高倍率微分干渉顕微鏡と高感度ビデオカメラを用いて光学的に可視化し,コンピュータ画像処理によって単一蛋白分子に付着した金粒子の動きをナノメートルの精度で分析した。この計測方法はナノメートル計測顕微鏡法と呼ばれる6)・7)。本研究において金粒子の付着した単一蛋白分子の運動は,束縛された領域に制限されている事が判明した(図5AB)8}。この装置に光ピンセットを組み込み金粒子の捕捉を試みたところ細胞膜の状態に依存して光ピンセットによる金粒子の捕捉が可能で,金粒子の付着した単一蛋白分子を直接操作できることが判明した(図5C)(金コロイド粒子のように光の波長よりも小さい物体の捕捉の原理は,光の放射圧に加えて電磁場の勾配力を考えなければならないとされるが詳しくは他の報告書を参照されたい(1))。上記の光ピンセットの捕捉力の評価から蛋白分子の運動への制限力の大きさはpNレベルであり,これほど小さい力で運動領域が制限を受ける事から,この蛋白分子の運動の成因は熱的擾乱によるブラウン運動であると推測された。この実験例では,糖鎖を持つ膜蛋白分子を標識するコンカナバリンAでラベルされた金粒子を用いた。膜蛋白分子の多くは細胞骨格と密接な関係にあることが,我々の研究も含めいくつかの研究から明らかになりつつある6)・7),8)。光ピンセットによる蛋白分子の直接的操作を行うと膜蛋白分子をその束縛域の境界まで移動する事が可能であった。しかし,一般にその束縛領域を決定している細胞の膜構造いわゆる""垣根""を超えて蛋白分子を移動させる事はできなかった。よってこの""垣根""と膜蛋白分子の間に働き得る力はpNレベルよりも大きいと推定される。この研究を更に発展させ細胞膜構造の力学的様相を明らかにする必要があると考える。
3 まとめ
1)測定装置について。本研究の成果により,光ピンセットの装置はおおむね作動するようになった。またナノメートル精度での光ピンセットの作用力の場を評価するための準備も整いつつある。さらに蛋白分子の運動とそれに対する作用力の評価を精度良く行うためには,レーザーの集光点の測定と制御をより高いレベルで行う必要がある。また顕微鏡のステージや細胞を操作するマニプレータの動きの精度もサブミクロンからナノメートルレベルが必要になりつつある。これらの点についても本研究から指針を得ることができた。
2)生物学的測定。本研究から細胞膜上の蛋白分子がランダムに高速運動している場合,その運動の原因は水分子のブラウン運動による膜蛋白分子への衝突であり,kT(kボルツマン定数T絶対温度)として知られる揺動力がはたらいている。この揺動力は4pNの力を1nm働かせる仕事量と等価であり,この力によるランダム運動は,光ピンセットの束縛場において抑制することができた。この運動の束縛が蛋白分子の機能にどのような作用を及ぼすかは,今後の重要な研究課題である。