1989年[ 技術開発研究助成 ] 成果報告 : 年報第03号

レーザーラマン分光法に基づく白内障予知システムの基礎的研究

研究責任者

尾崎 幸洋

所属:東京慈恵会医科大学 共同利用研究部 共同利用研究部 助手

関西学院大学理学部 助教授

共同研究者

入山 啓治

所属:東京慈恵医科大学 医科学研究所 助教授

共同研究者

伊藤 紘一

所属:早稲田大学 理工学部  教授

共同研究者

李 大国

所属:帝京大学 医学部  助手

共同研究者

浜口 宏夫

所属:東京大学 理学部 助教授

概要

1.まえがき
本格的な高齢化社会を迎えるにあたり,老化現象や老人病の研究がますます重要になってきた。白内障も重要な研究テーマの一つである。白内障は死に至る病ではないが,だれもがこの病気にだけはかかりたくないと考えている病の一つであろう。「白内障を予知する方法はないものであろうか」という願いはこれまで望みのない夢であった。しかしながら最近のレーザー分光学の著しい進歩はこの夢を現実のものに変えつつある。筆者らはレーザー分光法の一つであるレーザーラマン分光法による白内障予知を目ざしている。1-13)
レーザーラマン分光法による白内障予知を現実のものとするためにはつぎの二つの大きな問題点を解決しなければならない。
(1)どのラマンバンドをマーカーとして用いれば白内障の発生を事前に予知することができるか?
(2)レーザー光をヒトの眼に直接照射し,眼球内の生体組織に何ら損傷を与えることなくラマンスペクトルを測定するにはどうすればよいか?
本研究の目的はこの二つの問題点を解決し,近い将来レーザーラマン分光法による白内障予知システムを構築するための基礎を確立することにある。
II.研究内容と成果
研究内容と成果について述べる前に水晶体のラマンスペクトルについて簡単に説明する。
水晶体のラマンスペクトルを測定すると水晶体に含まれる3種類の水晶体蛋白質(α一,β一,γ一クリスタリン)と水のラマンスペクトルの重ね合わせのスペクトルが得られる。図1の(A)(B)はそれぞれ生後1ヶ月と5年のウサギ水晶体核部分のラマンスペクトルである。水晶体のラマンスペクトルは3800~2800cm-',2800~2500cm-1,1800~300cm-'の3つの領域に分けて解析すると理解しやすい。3800~2800cm-1の領域には水のOH伸縮振動によるバンド(3390cm-1)や水晶体蛋白質のCH伸縮振動によるバンド(2935cm-1)などが観測される(図1)。この2本のバンドのピーク強度比(RH2。=133g。/12935)から,水晶体に含まれる水の相対含量を見積ることができる。2800~2500cm-1の領域にはシステイン残基のSH伸縮振動によるバンド(2579cm-')が観測されるので,2731cm-1のバンドの強度を基準にとることにより(RSH;1257g/12731)水晶体蛋白質に含まれるSH基の相対含量を見積ることができる。1800~300cm-1の領域に観測されるバンドは蛋白質の主鎖によるバンド(1671と1240cm-1)あるいはトリプトファン,チロシンなどの芳香族アミノ酸残基によるバンドなどである。この領域からは,蛋白質の二次構造や芳香族アミノ酸残基の微環境に関する情報が得られる。水の相対含量の変化,SH基の相対含量の変化,芳香族アミノ酸側鎖の微環境変化などはいずれも水晶体の老化や白濁化と深いかかわりのあるものばかりなので,水晶体のラマンスペクトルは水晶体の病変を調べるのに本質的に適したものと言える。ラマン分光法によって白内障を予知することができる可能性があるのは,ラマンスペクトルが老化や白濁化に伴って変化するからである。図1の例は老化に伴って3390やr2579・cm 1のバンドの強度が弱くなっていることを示している。
今回の研究内容はつぎの通りである。
(1)エモリーマウス白内障(ヒトの老人性白内障のモデルと言われる)を用いて白内障を予知するためのマーカーバンドを検討した。
(2)微弱光(~1mW)を用いて短時間(~1秒)でラットの水晶体のラマンスペクトルを測定することを試みた。
(3)Arレーザーの488.0と514.5nm線,He-Neレーザーの632.8nm線を用いてラットの水晶体のラマンスペクトルを測定し,けい光回避におけるHe‐Neレーザーの有用性を証明した。
(4)ヒトの水晶体のラマンスペクトルの直接測定を試みた(研究責任者とイタリヤボローニャ大学Bertoluzza教授らとの共同研究)
以下(1)~(4)について解説する。
II-1白内障を予知するためのマーカーバンドの検討
白内障を予知するためのマーカーバンドをさがすためにはまず老化や白濁化に伴ってラマンスペクトルがどのように変化するかを徹底的に調べる必要がある。筆者らはこれまでにラット,マウスの水晶体の老化8・12)や糖尿病性白内障7),先天性白内障9・1°)の進行に伴うラマンスペクトル変化を調べた。今回,新たにモルモット,ウサギの水晶体の老化14)とエモリーマウス白内障15)の進行に伴うラマンスペクトルの変化を調べた(エモリーマウス白内障についてはすでに一部報告したが11),今回さらにデータの数をふやした)。表1には筆者らが観測した老化,白濁化に伴うラマンスペクトル変化とYuらis・17),ThomasとSchepler18)が観測したラマンスペクトル変化をまとめて示した。
表1に示す五つのバンドは一応マーカーバンドの候補として考えることができる。しかし実用的なすぐれたマーカーバンドはつぎのような条件を満足するものでなければならない。(1)正常な老化の場合と白濁化の場合ではっきりと異なった挙動を示す。(2)バンドの強度が強く,しかも白濁化に伴う強度変化が十分に大きい。(3)肉眼で白濁化が認められる以前から強度変化を示す。この三つの条件を最もよく満足するバンドは水のOH伸縮振動である。そこで筆者らはOH伸縮振動が白濁化を予知するマーカーとして特に有望であると考えた。図2は水のOH伸縮振動の強度が老化に伴って変化するようすをICR系マウス水晶体(正常)とエモリーマウス水晶体について比較したのものであるが11),この図からもOH伸縮振動がマーカーバンドとしてすぐれていることがわかる。
つぎにこのOH伸縮振動がヒトの白内障のマーカーバンドとしても有効であるか否かを検討することにした。この点については現在ボローニャ大学のBertoluzza教授らと共同で研究を進めつつある19}。
II-2微弱光による水晶体のラマンスペクトルの測定
水晶体のラマンスペクトルを測定するのに,どこまでレーザーパワーを下げうるか,またどこまで時間を短縮できるかについて調べた。まずArレーザーの488.Onm線を用いてその試みを行った'3)。その時筆者らの用いたシステムはSpex1877トリプルポリクロメーター-PAR1422-1460フォトダイオードアレイである。その結果,1mW,1秒のレーザー光照射で水のOH伸縮振動によるバンドの老化に伴う強度変化をとらえることができることがわかった13)。図3は1mW,1秒のレーザー光照射で測定したスペクトルを示す13)。図3のスペクトルのS/N比は必ずしもよくないが3390cm-1のバンドの強度変化は明らかである。1mW,1秒程度のレーザー光照射で水晶体のラマンスペクトルを測定することができればヒトを対象とした臨床応用も十分可能となる。つぎに514,5nm線を用いて同じ実験を行なった。S/Nはやや悪いがやはり1mW,1秒程度のレーザー光照射で水晶体のラマンスペクトル測定が可能であった15>。さらに現在,He-Neレーザーの632.8nm線を用いて同様の試みを行いつつあるis>。
II-3けい光回避の問題
II-2で述べたように488.Onm線と用いればヒトの眼の組織に何ら損傷を与えることなく,直接水晶体のラマンスペクトルの測定を行うことができると考えられる。しかしながち488.Onm線を用いたのでは水晶体が発するけい光が強すぎて(II-4で述べる)解析可能なスペクトルを得ることができない。ヒトの水晶体は年をとるにつれ長波長領域(~600nm)に強いけい光を発するので,けい光による妨害のないラマンスペクトルを測定するにはHe-Neレーザーの632.8nmかKrレーザーの647.1nm線を用いるのがよいと考えられている。筆者らはこの点を確めるためにArレーザーの488.0,514.5nm線とHe-Neレーザーの632.8nm線を用いて老化した(生後18ヶ月)ラットの水晶体(老化したラットの水晶体はヒトの水晶体ほどではないがかなり強いけい光を発する。このためきれいなラマンスペクトルを得るためにはしばらく水晶体にレーザー光を照射しつづけてけい光物質を破壊する必要がある)のラマンスペクトルを測定しけい光による妨害の程度を比較した。その結果,488.0や514.5nm線を用いた場合にはけい光による妨害のほとんどないスペクトルが得られるまでに10~15分を必要としたのに対し,632.8nm線の場合はただちにラマンスペクトルの測定が可能であった。この結果は632.8nm励起の有用性を如実に示すものである。
II-4ヒトの水晶体のラマンスペクトルの直接測定
ボローニャ大のBertoluzza教授らとともにヒトの水晶体のラマンスペクトルの直接測定を試みた(この実験はボローニャ大で行なわれた)19)。用いたレーザーの励起光は488.Onmで,パワーは0.5~2mW,照射時間は0.5~2秒であった。実験は成功し,たしかにヒトの眼に何ら損傷を与えることなく水晶体のラマンスペクトルが測定できることが証明された19)。しかしながら残念なことに得られたスペクトルは強いけい光におおわれており,解析することがほとんど不可能であった。今後,He-Neの632.8nm線又はKrレーザーの647,1nm線を用いて再度実験を試みる予定であるが,長波長側の励起光を用いた場合には検出感度に問題があり,目下その点を検討中である。
III.まとめと今後の課題
本研究からつぎのことが明らかになった。
(1)白内障を予知するマーカーバンドとしては水のOH伸縮振動によるバンド(3390cm-1)がよい。
(2)ヒトの水晶体が発する強いけい光によるラマンスペクトルの妨害を避けるにはHe‐Neレーザーの632.8nm線かKrレーザーの647.1nm線を用いるとよい。
(3)眼の組織に何ら損傷を与えることなくヒトの水晶体のラマンスペクトルを測定することが可能である。
今度の課題としては632.8nm線又は647.1nm線を用いてヒトの水晶体のラマンスペクトルを直接測定することが残された。この点を克服するためには種々の高感度のマルチチャンネル光検出器を用いてみる必要があろう。