2015年[ 中谷賞 ] : 年報第29号

ラマン顕微鏡の開発:細胞内無染色分子イメージングの実現

研究責任者

藤田 克昌

所属:大阪大学大学院 工学研究科 精密科学・応用物理学専攻 准教授

概要

1.はじめに
 ラマン散乱分光法は、分子や結晶格子の振動を検出し、試料中に含まれる物質の情報を多く与えてくれ、構造化学、材料工学、半導体工学等、様々な分野で活用されている。特に、近年は、ラマン散乱分光計測を生体試料の分析に利用する試みが多く見られ、生体試料を染色することなく、細胞や組織内の微細構造の観察、細胞組織の診断、分化過程の観察等の報告が行われている [1-4]。
 しかしながら、ラマン散乱の発生確率は非常に低く、強い光の照射や、長い時間の露光が難しい生体試料へのラマン分光法の利用は困難であった。その散乱効率は、蛍光分子の光吸収よりも十数桁低く、一つのラマン散乱スペクトルを計測するだけでも、数秒の時間の露光を行うのが一般的である。このため、数千から数万回の露光を必要とする高解像度な画像計測(イメージング)にラマン散乱分光法を組み合わせるのは難しく、特に動きのある生体の観察に適用されることはなかった。
 本研究では、ラマン散乱分光イメージングの高速化を第1の目標とした。また、開発した高速ラマン散乱分光顕微鏡を用いて、細胞内の分子のダイナミクスを可視化することを試みた。また、金属ナノ粒子表面でのラマン散乱の増強効果(Surface-enhanced Raman scattering: SERS)を利用した新しい細胞内イメージング法の提案を行い、細胞内輸送の観察に応用した。以下、ラマン散乱分光イメージングの概念から、それを可能とした装置開発、応用までを報告する。

2.ラマン散乱顕微鏡
 従来のラマン顕微分光装置は、試料の1点にレーザー光を集光し、そこからのラマン散乱光を、分光器を通して検出していた。ラマン分光計測には数秒の露光時間が必要となるため、試料内を1点1点測定して画像を構築するには、非常に長い撮像時間(露光時間を3秒、画素数を128×128 として、13.7 時間)が必要となり、生きた試料の観察には不向きであった。
 そこで、本研究では、試料の複数の部位から同時にラマン散乱光を測定可能な光学系を用いることで、撮像速度を約400倍程度高めることを試みた[5, 6]。図1a) に開発したラマン散乱顕微鏡の光学系の概略図を示す。光源には、波長532 nmのNd:YVO4レーザー(連続発振レーザー、2倍波)を用いた。レーザー光はシリンドリカルレンズによりライン状の集光光線となり、最終的に試料上に投影される。試料はライン状のレーザー光により照明され、ライン状の複数の点においてラマン散乱光が生じる。各々の点からのラマン散乱光は対物レンズ、結像レンズ、およびリレーのレンズ系を通して、分光器のスリット上に結像される。ここで、スリット上には試料上でのラマン散乱光の分布とほぼ同じ光の分布が形成される。分光器スリットの各部位を通過したラマン散乱光は分光器により複数の光路に分かれ、冷却CCDカメラにより検出される。冷却CCDカメラによって検出した画像は、1軸に空間(x)、もうひとつの軸にスペクトル(波長)のデータとなる。この画像データを、試料を照明するライン光の位置を横にシフトさせながら計測していくことで、xy平面におけるラマン散乱分光スペクトルの空間分布を取得する。ライン光のシフトにはガルバノメーターミラーを用いた。
 このような方式の顕微鏡は、スリット走査型レーザー走査顕微鏡と呼ばれ、これまで蛍光顕微鏡に利用されてきた実績がある。分光器の入射スリットが、1軸方向のみ共焦点ピンホールと同様の役割を果たすため、試料の深さ方向(z)にも空間分解能を有する(解像力は共焦点顕微鏡の半分程度)。また、x、およびy方向の空間分解能は、それぞれ、従来からの広視野顕微鏡、および共焦点顕微鏡におけるインコヒーレント結像の場合と同様となる。
 図1b)はHeLa細胞の細胞質から得られる典型的なラマン散乱スペクトルを示す。スペクトルには多くのラマン散乱ピークが確認され、それぞれが異なる分子振動の様子(振動モード)を示しており、タンパク質や脂質、核酸等の情報をスペクトルから読み取ることができる。ラマン分光画像計測では試料の各点からこのようなスペクトルを測定し、測定対象のラマン散乱ピーク強度の空間分布をラマン散乱像として表示する。

3.生細胞のラマン散乱イメージング
 開発したスリット走査型のラマン散乱顕微鏡を用いて、生きた試料の観察を試みた。試料としてはHeLa細胞を用いた。照射したレーザーの強度は約3 mW/μm2 であり、試料上で約80 μm の長さのライン状に投影された。1ライン毎の露光時間は5秒であり、約333 nm ステップでラインを走査しながら120回の露光を行った。総露光時間は約16分であった。
 図2に観察結果を示す。図2a)では、750 cm-1、1689 cm-1、2855 cm-1 に現れるラマン散乱ピークの強度分布を示しており、それぞれ、cytochrome cのピロール環の呼吸振動、ペプチド結合のアミドI振動モード、CH2の伸縮振動に帰属することができる。cytochrome c はミトコンドリアに多く含まれるため、750 cm-1 のラマン散乱による画像では、細胞内に編目状に存在するミトコンドリアの分布が確認できる。1689 cm-1 付近のペプチド結合の振動は、タンパク質のβシートから強く観察されることが知られている。βシートは多くのタンパク質に含まれるため、1689 cm-1 におけるラマン散乱像は主にタンパク質の平均な濃度分布を示していると考えられる。また、CH2は脂質分子に比較的多く含まれるため、2850 cm-1 のラマン散乱像は、主に細胞中の脂質小胞やミトコンドリア等の脂質膜に囲まれた細胞内小器官の分布を反映していると考えられる。今回の露光時間は約16分と、速い動きをする試料の観察へ適用することは難しい。しかし、従来法に比べ約400倍の速度向上に成功しており、しばらく静止している細胞であれば、生きたままでも十分に観察を行うことができる。
 露光時間は走査ライン数に比例するため、その数を少なくすれば、比較的遅めの細胞活動を可視化できる。図2b)は細胞分裂中のHeLa細胞の観察結果であり、走査ライン数を48、露光時間を1秒とすることで、1フレーム当たり約3分で撮像したものである。5分おきに観察を行った結果、細胞分裂に伴う分子の分布の変化がラマン散乱により観察された[5]。
 ここで観察されたラマン散乱光のうち、cytochrome cに帰属されるピークは非常に鋭く観察された。これは、cytochrome cが照明に用いた波長532nmの光を吸収するため、共鳴ラマン散乱の効果により強いラマン散乱光が得られたためであると考えた。そこで、照明に用いる波長を、488 nm、515 nm、532 nm、633nmとし、細胞質のラマン散乱スペクトルの測定を行った。その結果を図3に示す。この結果では、515 nm、532 nm のレーザー光の照射時にcytochrome cに帰属されるラマン散乱ピークが強く表れている。これらの波長は cytochrome cが吸収可能な波長であるため、観察された強いピークはcytochrome cによるものであると考えられる。cytochrome bも同様に共鳴ラマン散乱を生じるが、このタンパク質に見られる特徴的な600 cm-1 のラマン散乱光が見られないこと、ミトコンドリアへの強い局在を示さないことから、今回観察されたのは、cytochrome cであると結論付けた[5]。

4.アポトーシス細胞のラマン散乱イメージング
 上記のように共鳴ラマン散乱によりcytochrome cを特異的に検出できることが示唆されたため、実際にcytochrome cが重要な役割を担うアポトーシスを誘導したHeLa細胞のラマン散乱イメージングを行った。アポトーシスは、損傷を受けたり、発達上不要になった細胞が示す自殺効果であり、その際に細胞内のタンパク質を破壊するトリガーとしてcytochrome cが機能している。cytochrome cは通常ミトコンドリア内に存在しているが、アポトーシスが誘導されるとミトコンドリアから細胞質に放出され、タンパク質を破壊する酵素を活性化させる。本実験では、細胞のアポトーシスへの誘導は、細胞へActinomycin Dを添加してRNAの合成を阻害することにより行った。
 図4にアポトーシスを誘導したHeLa細胞と非誘導のHeLa細胞のラマン散乱像を示す[7]。750cm-1に現れるcytochrome cのラマン散乱ピークの強度により観察像を構成した。観察の結果、アポトーシスを誘導したHeLa細胞では、観察開始から約30分後にcytochrome cの空間分布が大きく変化し、ミトコンドリアへの局在が見られなくなった。一方、アポトーシスを誘導していない細胞については、このような空間分布の変化は見られなかった。アポトーシスにおけるcytochrome cの空間分布の変化を詳細に観察するために、アポトーシス誘導後の細胞を固定し、試料のより広範囲のラマン散乱観察を行った。その結果を図5に示す。図5に示すように、アポトーシスを誘導した細胞ではcytochrome cが細胞質全体に行き渡っており、非誘導の細胞とは大きく異なる分布を示していることが分かる。一方、脂質やタンパク質の空間分布は二つの結果で同じような傾向が見られていることが分かった。また、cytochrome cが放出された場合でも、ミトコンドリアの形態が保持されていることを確認するため、ミトコンドリアを蛍光染色し、cytochrome cの空間分布と比較した(図6)。その結果、cytochrome cの空間分布が変化してもミトコンドリアの形状に異常は見られず、cytochrome cのミトコンドリアからの放出が確認された。
 cytochrome cのラマン散乱スペクトルは、還元型のcytochrome cと酸化型のcytochrome cとでは異なることが知られている(図7a)。このため、細胞内のcytochrome cの酸化還元状態の変化がどのような影響をラマン散乱像に与えるかを検証した。まず、生きた状態のHeLa細胞を観察(図7b)し、その後、パラホルムアルデヒドで固定を行った。固定した細胞で再びラマン散乱観察を行い(図7c)、最後に、過酸化水素水を細胞に添加し、細胞内を酸化させた上で、再度、ラマン散乱観察を行った(図7d)。図7の結果により、酸化型のcytochrome cからは非常に弱いラマン散乱しか得られず、細胞内に存在する濃度での観察は難しいとうことが分かった。この結果、および図4で示した結果をふまえると、ミトコンドリアからの放出前後でcytochrome cのラマン散乱強度はそれほど変化を示していないため、ミトコンドリアからの放出による環境変化はcytochrome cの酸化還元状態にあまり影響を与えないことが示唆された。

5.SERSを利用した高感度ラマン分光計測
 ラマン散乱分光法は非常に強力な物質分析技術に応用できるが、その効率の低さにより、顕微計測における時間分解能、空間分解能の向上が難しかった。そこで、金属表面でのラマン散乱の増強効果を用いることで、細胞内分子を高感度に検出することを試みた[8]。
 生きたマクロファージ細胞内に直径が約50 nmの金のナノ粒子を取り込ませ、波長785 nm(CWチタンサファイアレーザー)の波長を照明光に用いてラマン散乱観察を行った。金ナノ粒子の導入は、ナノ粒子を含む培地中でマクロファージ細胞を培養することにより行った。
 図8に金ナノ粒子を導入したマクロファージ細胞の暗視野像(図8a)、およびラマン散乱像(図8b-d)を示す。観察時の露光時間は0.5秒/ラインであり、総撮影時間は25秒である。図8のラマン像では、b)647 cm-1, c)1286 cm-1, d)1501 cm-1に現れるラマン散乱ピークの強度分布を画像化している。また図8e)は、図8b-d)の各点から得られたラマン散乱スペクトルを示している。この結果では、0.5秒という短い露光時間であっても、信号対雑音比の高いラマン散乱信号が、金ナノ粒子が存在すると考えられる部位から得られている。金ナノ粒子を導入しない細胞からは、このような強いラマン散乱光は検出されなかったため、図8e)に示されたラマン散乱スペクトルは金ナノ粒子による増強効果を介して検出されたものと考えられる。
 金ナノ粒子による細胞内粒子のラマン散乱の増強効果が確認できたため、撮像速度をより向上することを試みた。図1の冷却CCDカメラを画像の高速転送が可能なEM-CCDに交換し、励起光の波長を676 nm に変更し、よりラマン散乱の発生効率を高めた。試料には、金ナノ粒子(直径50nm)を取り込んだマクロファージ細胞を利用した。この観察により得られたラマン散乱像および暗視野像を図9a、b)に示す。図9aのラマン散乱像は、波数 900-1600 cm-1のラマン散乱の平均強度をプロットしたものである。1ライン辺りの露光時間は50ミリ秒、走査ライン数は48ラインであり、約2秒で1枚のラマン散乱像の取得に成功した。これにより細胞内を移動する金ナノ粒子の様子(図9c)と、その付近の分子の情報を与えるラマン散乱スペクトル(図9d)を取得することができた。
 これらの測定により、金ナノ粒子を用いれば高効率にラマン散乱を誘起できることは確認できたが、1)ナノ粒子の存在する部位のみしか計測を行えない、2)ナノ粒子の運動により計測部位が変動してしまう、という課題が金属ナノ粒子による表面増強ラマン散乱の利用にあることを見いだした。2)については、大きく分けて、ランダム、ほぼ1カ所に静止、直線状の運動といった3つのパターンが観察された。このうち直線状の運動は以下に述べる細胞内輸送の様子を示しており、これを利用した新しいイメージング法の発想を得た。以下にその詳細を述べる。

6.細胞内輸送のSERSイメージング
 細胞内にエンドサイトーシスにより取り込まれた物質は、その後、細胞内の輸送機構によりエンドソームやリソソームなどの細胞内小器官へと集積されることが知られている。そこで、この細胞輸送の経路上にある金ナノ粒子に注目し、その運動を高速にトラッキングしつつ同時に増強ラマン散乱計測を行う、ダイナミックSERSイメージング法の開発に取り組んだ[9]。
 ダイナミックSERSイメージング法のために開発した顕微鏡光学系を図10に示す。この光学系は、金ナノ粒子の細胞内での位置を測定する暗視野顕微鏡部と、金ナノ粒子からの増強ラマン散乱光を測定するラマン顕微鏡部とから構成される。ひとつの金ナノ粒子に注目して観察を行うことから、レーザー照明光はスポット状とした。暗視野顕微鏡による観察結果を元にコンピュータで注目する金ナノ粒子の座標を計算し、ガルバノメーターミラーを用いてレーザースポットをその座標に移動させた。暗視野計測を行うEM-CCDカメラ、ラマン分光計測を行うEM-CCDカメラ、ガルバノメーターミラーの制御は同期されており、1回のラマン散乱スペクトルの計測毎に、金ナノ粒子の位置計測、およびレーザースポット位置の修正を行った。これにより、金ナノ粒子の位置を非常に高い精度(実際には15nm程度)で計測でき、かつその部位の分子情報を与えるラマン散乱スペクトルの計測も行える。この二つの情報を元に、金ナノ粒子の運動に係わる生体分子や周囲環境の変化をマッピングできる。
 図10a)は、マクロファージ細胞に導入した直径50nm の金ナノ粒子の暗視野顕微鏡像である。この金ナノ粒子にレーザー光を照射し、その位置、および増強ラマン散乱スペクトルを250ミリ秒毎に測定した。図11b)に金ナノ粒子が移動した経路を測定した結果を示す。また、図11b)の各位置で測定されたラマン散乱スペクトルから、波数 977cm-1、1457cm-1、および1541cm-1(それぞれ、リン酸イオン、CH2/CH3偏角振動、およびアミドII振動モードに帰属できる)に現れるラマン散乱ピークの強度を、それぞれ、赤、緑、および青で示した結果を図11c)に示す。この結果では、金ナノ粒子は、始め、画像の下部から上部に輸送され(輸送1)、その後、画像中程まで引き返し(輸送2)、1カ所に補足された。輸送1ではアミドII振動モードが、輸送2ではCH2/CH3偏角振動が強く検出された。また、金ナノ粒子が何かに補足された際には、リン酸イオンに帰属できるラマン散乱ピークが強く表れた。このように金ナノ粒子の動態の変化に対して強く相関したラマン散乱スペクトルの変化が観察されたことから、金ナノ粒子の環境、もしくはそれに作用する生体分子を大きく反映したラマン散乱スペクトルが取得されているものと考えられる。

7.おわりに
 本研究では、微弱なラマン散乱を効率良く検出し、生体観察へラマン分光法を利用するための基礎技術開発を行った。ライン照明を利用したスリット走査型ラマン散乱顕微鏡は、従来法に比べ、数百倍高速な撮像速度を実現し、生きた細胞のラマン散乱観察を可能にした。開発した装置を用いて、細胞分裂やアポトーシス中の分子動態を可視化することに成功した。また、金属ナノ粒子によるラマン散乱の増強効果を利用し、細胞内の生体分子を感度良く検出できることを示した。スリット走査法や粒子トラッキングを組み合わせることにより、金ナノ粒子の細胞内での運動を通して、細胞輸送を把握し、それに強く相関したラマン散乱スペクトルを得ることができた。これらの装置開発により、ラマン散乱分光法、および増強ラマン散乱分光法を多くの医学、生物学研究に応用できる基盤技術が整った。具体的なアプリケーションについてはまだまだ未知数のところがあるが、この新しい窓から生体試料を観察する技術によって、生物学、医学、および創薬分野に新しい展開がもたらされることを期待する。