1992年[ 技術開発研究助成 ] 成果報告 : 年報第06号

フーリェ変換赤外分析法を応用した血糖値の非侵襲的計測法の開発

研究責任者

七里 元亮

所属:熊本大学 医学部 代謝内科 教授

共同研究者

山口 康平

所属:熊本大学 医学部 代謝内科  講師

共同研究者

福島 英生

所属:熊本大学 医学部 代謝内科  講師

共同研究者

榊田 典治

所属:熊本大学 医学部 代謝内科  助手

共同研究者

梶原 研一郎

所属:熊本大学 医学部  大学院生

概要

まえがき
糖尿病治療の最終目標は,糖尿病性細小血管合併症の発症,進展を阻止することにあるが,これを達成するためには厳格な血糖コントロールが必要であり1),頻回の血糖測定が不可欠である。現在,インスリン使用患者を中心に行われている血糖自己測定法は,耳朶または指尖より採血し,測定に供しているが,苦痛を伴い,かつ測定結果を直ちに治療に反映できるものではない。近い将来,高齢者社会の到来とともに糖尿病患者の激増が予想されるため,自宅で血糖を簡単に,しかも正確に測定できる非侵襲的血糖測定装置の開発が待望されている。さらに,測定された1血糖値を治療にすぐに反映できる血糖制御システムが開発されれば,長期にわたる健常人と同様の厳格な血糖制御を達成することも夢ではない。
我々は,すでにベッドサイド型人工膵島,携帯型人工膵島の開発に成功し2)3),ことにベッドサイド型人工膵島は昭和63年より健康保険の適用を受けて,臨床の場で幅広く使用され,糖尿病患者において健常人と同様の血糖制御が再現できることを証明しているが,採血量やセンサの寿命などにより,必ずしも長期応用に適しているとはいえなかった。そこで,我々は1988年より内部多重全反射(ATR)プリズムを応用したフーリェ変換赤外分光分析法による血糖計測の開発に着手し,ブドウ糖水溶液,血液試料(血清,血漿,全血)における血糖測定について,本法の有用性を報告してきた4)5)6)。
今回,糖尿病患者からの非侵襲的血糖計測を目的として,ATRプリズムの改良を中心に新しい装置の開発に取り組み,生体組織から経皮的,経粘膜的に血糖測定を行わんとした。
内容
本研究において,赤外吸光スペクトルの測定には日本分光製フーリェ変換赤外分光装置(モデルFT-IR/5M)を用いて測定した。試料室には多重全反射プリズムを導入し,内部反射エレメントとしてセレン化亜鉛を採用,反射角は45°を用いたが,波数分解能は4cm-1であった。各試料を室温27℃にて500回,波数400~4300cm-1間でスキャンし,透過スペクトルは液体窒素で冷却したMCT検出器によって検出した。各試料の吸光スペクトルは水の吸光スペクトルで除して求めたが,この操作により,二酸化炭素による強い吸光効果を相殺することができた。
現在までの研究1}2)で,①ブドウ糖水溶液の吸光スペクトルは波数1000~1100cm-'にピラン環の振動エネルギーに由来すると思われる大きなクラスターをもち,,この中に波数1033,1080cm-1の2つのピークがあること,②ともにブドウ糖濃度に呼応して増高するが,波数1033cm-1のピークは常に波数1080cm 1のピークより高く,全体として右上がりの山を形成すること,③ブドウ糖固有のピークの頂点吸光度や面積吸光度などのパラメータとブドウ糖水溶液のブドウ糖濃度の関係を検討した結果,波数1033cm-1のピークの頂点吸光度がブドウ糖濃度と最も良い正の相関を示すこと,④血清,血漿,全血試料において,主に血球成分,アルブミンやγグロブリンなどの蛋白成分が,基線を上方に変位させ,かつブドウ糖の吸光ピークに干渉,ことに波数1080cm-1のピークが増高し,波数1033cm-1のピークより高くなること,⑤これら干渉物質の影響および基線の動揺を除去すべく,基準試料(例えば空腹時試料)との差スペクトルで表現することにより,ブドウ糖濃度(基準試料のブドウ糖濃度よりの増減)を計測しうること,⑥ATRプリズムに健常人の皮膚や粘膜を圧着し,得られた吸光スペクトルを分析したところ,ブドウ糖固有のピークに一致したピークが存在すること,などが認められた。
そこで,下口唇粘膜からの非侵襲的血糖計測を可能にするため,以下のごとく,ATRプリズムを中心とした計測装置の改良と計測方法,ことに圧補正のためのアルゴリズムについて検討した。
成果
1.ATRプリズムの改良
図1に内部多重全反射(ATR)プリズムを応用した赤外分光分析法の原理を示すが,現在使用中の装置では,口唇粘膜を安定して圧着することができなかった。
そこで,セレン化亜鉛のプリズム面を水平および前方に60°傾斜させた位置で設置できるように改良し,水平位置では対照とする水の吸光スペクトルを,また前傾位置では口唇からの吸光スペクトルを得られるようにした。
その結果,患者が座位で長時間口唇をプリズムに圧着させて吸光スペクトルを計測することが可能となった。しかしながら,口唇粘膜とプリズムの接触圧により,吸光スペクトルの変動が認められ,圧補正が必要と考えられた。
2.圧補正法の検討
まず,我々は図2に示す波数2920cm-1に存在するブドウ糖固有のクラスターとは分離可能なCH2基の非対称伸縮バンドに注目した。図に健常人の粘膜組織からの吸光スペクトルを示すが,吸光スペクトルは粘膜とプリズムの密着度に応じて変化し,またその二次微分値も図3のごとく変化した。30回の測定で得られたスペクトルを解析した結果,図4に示すごとく,その吸光ピークの二次微分値は波数1033cm-1に存在するブドウ糖固有ピークの頂点吸光度の二次微分値と高い一次の正相関(r=0.910)を示すことを見いだした。
したがって,この関係を用いて圧補正が可能と考え,圧補正式(Y=0.295X+0.077)を算出した。
3.ブドウ糖酸化酵素法との比較
糖尿病患者5名の口唇粘膜を通じて得られた吸光スペクトル(延べ30回測定)を,固体特性を除くために空腹時に得られた吸光スペクトルとの差スペクトルで表現し,さらにこのスペクトルのブドウ糖固有の吸光ピーク破数1033cm-1)の二次微分値を先に求めた圧補正式で補正した。次いで,干渉物質の影響を除外すべく,基準試料(例えば空腹時試料)との差スペクトルで表現した。また,赤外分光分析法による血糖計測に先立ち,患者の静脈血をフッ化ソーダ入りの採血管に採取し,全血を用いてグルコース・アナライザ(YSI社製,モデル23A}により,血糖測定を行い,本法との相関を検討した。
その結果,図5に示すごとくブドウ糖固有のピーク(1033cm-1)の二次微分値は,酵素法で求めた血糖値(空腹時値よりの増加量)と高い相関を示した。
考察
ブドウ糖酸化酵素法を含め,従来の血糖計測法は,採血による試料の調達を必要とし,臨床的には,貧血,感染症の問題があり,測定の時間についても遅れを避けることができなかった。1978年,ドイツのKaiser7)は,フーリェ変換赤外分光分析法に内部多重全反射(ATR)法を導入し,皮膚,粘膜面より,直接ブドウ糖由来のシグナルを求め,ブドウ糖濃度の定量化を試みたが,以後の報告はなされていない。
我々の現在までの研究では4)5)6),ブドウ糖分子は1033,1080cm-'に吸光ピークをもち,これはピラン環に由来すると推定されている。さらに,このピークの吸光度はブドウ糖に対し一次の濃度依存性をもつため,吸光度によるブドウ糖濃度の定量が可能と考えられるが,ブドウ糖の吸光度は他の生体成分の吸光度に比して小さく,またその臨床応用域で雑音に極めて接近しているため,実用化は困難と考えられていた。実際,わが国では菊地ら8)により陰圧負荷で得られた浸出液にATRの適用を試みたが,精度の高い定量法の開発には至らなかった。
しかし,近年測定機器の改良による吸光スペクトルの精度も向上し,計測にまつわる諸問題が解決しつつあり,赤外分光分析法によるブドウ糖濃度計測の実用化の道が開けてきた。生体成分の干渉についても,多変量解析などの数理的方法や,我々が報告してきた空腹時試料のスペクトルとの差スペクトル法などを導入することにより解決できると考えられ,血液などの試料では臨床応用が可能な段階まで開発が進んでいる。
そこで,今回は非侵襲的計測法を確立するため,ATRプリズムを中心とした計測装置の改良を行い,併せて必要なアルゴリズムについても検討した。新しいATRプリズムの導入により,粘膜組織(下口唇)をプリズムに直接圧着して吸光スペクトルを測定することが可能となったが,接触圧により吸光スペクトルが変動することが判明した。この問題については,1033cm-1の頂点吸光度の二次微分値を,2920cm-1に存在するCH2基に由来する非対称伸縮バンドの二次微分値で補正し,さらに差スペクトルを適用することで解決することができた。以上のごとく,光学的ブドウ糖センサによる非侵襲的血糖計測の道は開かれつつあるが,現時点では,①計測手技の検討,②感度,精度の向上,③S/N比の向上,④分解能の向上,⑤データ処理法の検討などが十分行われておらず,実用化のためには残された問題点も多い。
ことに,現在使用している機器は光源としてニクロム高音発熱体を用いており,①光源のエネルギーが低いこと,②光源のエネルギーが室温の変化や電源電圧の変動に対して不安定であること,③S/N比が低いこと,④装置が非常に大型であること,などの問題点がある。これらの点の多くは,光源にレーザ・システムを使用することにより改善できると考えられる。また,現在使用している機器では波数400~4300cm-1の範囲をヌ、キャンして吸光ヌ、ペクトルを測定しているが,血糖計測に必要な波数が決定でき,特定の波数を有する一単一光を組み合わせて放出できる半導体レーザ・システムを用いることができれば,機器の大部分の容積を占めている光学系が不要となり,機器の小型化が可能と考えられる。
また,非侵襲的計測においては,数多くの生体物質が存在するために,個々の物質に由来する吸光スヘクトルは互いに干渉し,複雑なものとなるので,かかる多情報の中から,ブドウ糖固有のピークを分離し,定量化するためには,コンピュータ分離アルゴリズムの開発が是非必要となる。
いずれにしても,ME技術やコンピュータ技術の急速な進歩が半導体レーザ・システムを用いた超小型の光学的ブドウ糖センサ・システムの開発を可能とし,近い将来,携帯型人工膵島の計測部門に応用されるものと信じている。
まとめ
血糖の非侵襲的計測を目的として,赤外分光分析装置,ことにATRプリズムを改良,口唇粘膜を通じて得られた吸光スペクトルを分析し,以下の結果をえた。
①ATRプリズムに,健常人の下口唇粘膜組織を直接圧着し,その吸光度を水の吸光度で除して得られた吸光スペクトルについて検討したところ,ブドウ糖固有のピークに一致したピークが認められた。
②波数2920cm-1に存在するCH、基に由来する非対称伸縮バンドの吸光ピークの二次微分値はブドウ糖固有ピーク(波数1033cm-i)の二次微分値と高い一次の正相関を示し,回帰直線より圧補正式を算出しえた。
③糖尿病患者の口唇粘膜を通じて得られた吸光スペクトル(延べ30回測定)を,波数1033cm-1のピークの二次微分値を圧補正式で補正し,次いで,空腹時の吸光スペクトルとの差スペクトルで表現したところ,血中ブドウ糖濃度と高い正相関を認めた。
④これらの結果より,赤外分光分析法を応用した非侵襲的血糖計測の可能性が示唆されたが,今後レーザ・システムの採用やコンピュータ分離アルゴリズムの開発が必要と考えられた。