1988年[ 技術開発研究助成 ] 成果報告 : 年報第02号

データ圧縮による生体信号の長時間計測と痙性の定量的評価への応用

研究責任者

赤澤 堅造

所属:大阪大学 工学部 電気工学科 助手

共同研究者

川村 次郎

所属:大阪労災病院 リハビリテーション科 部長

概要

1.まえがき
脳卒中,脊髄損傷などの中枢神経系疾患の呈する症状の中で,特に筋の異常緊張状態9すなわち痙性は身体機能に多大な影響を与えるものであり,これらの疾患の診断および治療効果の判定のため痙性の定量的評価法の確立が強く望まれている1)。痙性は患者の精神的緊張,身体的諸条件の影響をうけ,時間的にその程度が変動するという特異な性質を有するため,筋のトーヌス,つまり筋電信号を長時間計測することによって痙性の程度を定量的に評価できることが期待される。すなわち,痙性の発現の頻度,その時の筋張力の大きさ(痙性の強さ)を指標にして,痙性の程度を定量的に評価することができる。
本研究の目的は,日常生活を行っている患者の筋電信号を携帯型コンピュータによって長時間連続して計測し痙性を定量的に評価するシステムを解説することであるA/D交換された筋電信号の値そのものをICメモリに記憶させるには膨大なメモリが必要となる。そこで,ここでは筋電信号に含まれている有用な情報を検出し,それを高能率で符号化するというデータ圧縮の手法を用いる。筋電信号のデータ圧縮に関する研究報告は従来ほとんどなく,本研究では,筋電信号のデータ圧縮の手法を開発し,その有用性を示すことを主たる目的とする。さらに,携帯型コンピュータを用いて,データ圧縮により健常人の筋電信号を12時間計測し,開発したシステムの有用性を示す。
2.内容
2.1概略
観測される筋電信号は不規則雑音のような信号であるが,この中に含まれる最も重要な情報は筋張力に比例する成分である。そこで本研究では,観測される筋電信号そのものを記録再生するという方法ではなく,筋電信号を全波整流,平滑化することによって筋張力に比例した信号成分を検出し,それを記録し,再生するという手法を用いる。そして,本研究では,等尺性収縮における筋電信号と筋張力を測定して最適な平滑化フィルタを決定する。次に,この全波整流,平滑化された信号(以下FEMGと略す)を小容量のメモリに記憶するために,波形符号化を行う。波形符号化法として,高能率な波形符号化法の1つである適応デルタ変調(ADM)を適用し,実測の筋電信号を用いてADMの諸パラメータを決定する。さらに,携帯型コンピュータに,開発したデータ,圧縮のプログラムを塔載し,筋電信号を長時間計測して開発したデータ圧縮法の有用性を明らかにする。
2.2システムの構成
図1に筋電信号の長時間計測システムの構成を示す。まず,筋電信号の計測は筋電信号用アンプと携帯型コンピュータを用いて行う。すなわち,表面電極により双極誘導した筋電信号を差動増幅(80dB,1~100Hz)し,その信号をAD変換(サンプリング間隔4msec)して携帯型コンピュータに取り込み,さらにデータ圧縮を行ってICメモリーに記憶する。ここでは,筋電信号から筋張力に比例した信号を抽出し,それを記【意,再生するという手法を用いる。すなわち,まず筋張力に比例した信号x(n)を,筋電信号を全波整流,平滑化することにより検出する。次に,このx(n)に対してADMにより波形符号化を行い,1ビットの符号C(n)をICメモリに記憶する。
次に,筋電信号の再生は携帯型コンピュータ,インターフェース,ホストコンピュータを用いて行う。すなわち記憶されているICメモリの内容,C(n)をインタフェースを介してホストコンピュータに転送し,ホストコンピュータ上で,このC(n)に対して波形復号化を行い,筋張力に比例した信号x(n)を再生する。
ここで解決するべき点は,i)筋張力を精度よく推定するための平滑化フィルタを決定することと,ii)ADMのパラメータを決定することである。
3.結果
3.1筋張力推定のための筋電位処理法
システム同定の手法を用い,図1の平滑化フィルタH(jw)を推定する。筋電信号E(t)を全波整流した信号をu(t)とし,筋張力をy(t)とする。計測されるu(t)の自己スペクトル密度関数G。(w)およびu(t)とy(t)の相互スペクトル密度関数G。y(jw)を用い,H(jw)の周波数応答は,H(jw)=G。,(jw)/G。(w)により求まる。このH(jw)を伝達関数H(jw)で近似し,次に倉(jw)をZ変換することによりパルス伝達関数を得る。
健常男子4名の総指伸筋および手根屈筋の表面筋電信号と等尺性の張力を推定し,そしてAD変換して計算機(PDP11/23)に入力した。視覚情報として,CRT上に張力の目標信号と張力(ストレンゲージ出力)を輝線で表示した。目標値としては,周波数の異なる6種類(0。0625~2Hz)の3角波を用いた。図2に測定結果の一例を示す。上段が全波整流した筋電信号u(t)で,下段の細実線y(t)が張力である。
計測結果から,周波数応答H(jw)を算出し,ゲイン,位相を求めた。H(jw)はローパスフィルタの特性を示し,ゲイン特性が4名の被験者ともに,20~50dB/decadeで減衰しているので,平滑化フィルタとして
の伝達関数を採用した。推定されたパラメータζ,w。は被験者,伸筋,屈筋によらずほぼ一定の値wn=14.5,ζ=0.85であった。この伝達関数を用いて算出した時間応答y(t)を図2に太実線で示す。y(t)には,微少な振動成分が現れるが,概ね実測張力y(t)に一致している。4名の被験者の総ての計測結果に対してy(t)を算出した結果,実測張力y(t)とy(t)の誤差の自乗積分値をy(t)のパワで正規化した値は9%であり,これは実用上許容できる誤差であると考える。
3.2波形符号化法の構成
FEMG信号に対してADMおよび2~4ビットのADPCMを適用した結果,ADMにおいて37dB以上のSN比が得られたので,少ないICメモリで済むADMが最適であると判断した。ADMのブロック図を図3に示す。
量子化誤差をe(n)=d(n)-d(n)とすると,復号化された信号x(n)は
となり,信号対雑音比(SN比)は
として表現される。適応ロジックは,最小の量子化誤差となるように量子化幅△(n)を適応的に変化させる要素であり,
によって決定する。ここで,実測の筋電信号に対してADMを適用し,各パラメータの最適な値をSN比を評価基準として決定した。結果のみを以下に示す。Q(n)の値は以下の通りである。
予測器P(z)は,固定パラメータの1次予測P(z)=αz-1,α=1である。△max,△minは測定される筋電信号信号の振幅の最大値(AD変換値)EmaxとFEMG信号のサンプリング間隔T(sec)を用い,
によって決定される。筋張力の周波数成分は,つまりFEMG信号にっいては,痙性患者の日常の運動では高々5Hzまで考慮すれば十分と考えられ,T=0.1secである。以上のパラメータを用いると,設定したEmaxに対して,筋電信号信号の振幅がEmax~0.01Emaxの範囲で変化しても,SN比が39dB以上維持されていることを確認している。
図4は実測の筋電信号について波形符号化と復号化した結果の一例である。量子化幅が筋電信号に応じて,適応的に変化し,精度良く符号化,復号化されていることが示されている。
3.3携帯型コンピュータを用いた計測
携帯型コンピュータに開発したデータ圧縮の演算プログラムを塔載して筋電信号を長時間計測し,開発した手法の有用性を確認した。図1の計測処理システムを用いた。携帯型コンピュータとインターフェースの構成は牧川ら2)の開発したシステムと同じであり,図5に示す。
CPUはZ80,メモリは64Kバイトである。処理時間は1サンプル当たり約1.32msecで,プログラムの容量は約1Kバイトであった。
まず,携帯型コンピュータによるデータ圧縮が正確に行なわれていることを短時間の筋電信号を計測して確認した。つぎに日常生活を行っている健常人の表面筋電信号を携帯型コンピュータを用いて12時間測定した。図6に計測結果の一例を示す。所望の結果が得られており,開発したシステムにより,筋電信号を連続して長時間計測できることが確認された。
4.まとめ
筋電信号を長時間測定するためのデータ圧縮の手法を開発し,さらに携帯型コンピュータを用いて実際に筋電信号を計測し,開発した手法および計測処理システムの有用性を示した。データ圧縮は,全波整流,平滑化により筋張力に比例する信号を検出し,その信号を適応デルタ変調により波形符号化する,という処理からなる。健常人の表面筋電信号を携帯型コンピュータを用いて長時間計測して所望の結果が得られることを示し,開発したデータ圧縮の手法の有用性を明らかにした。
なお,提案したデータ圧縮では,筋電信号のAD変換は8ビットでサンプリング間隔が4msecであり,ADMは1ビットでサンプリング間隔が100msecであるので,圧縮率(圧縮データ量1ビット/100msecに対する原データ量8ビット/4msecの割合)は200である。また64KバイトのICメモリの場合,連続計測時間は13.2時間である。
本年度の研究では,データ圧縮の有用性を確認することを主たる目的としており,今後の課題は実用性の高いより軽量小形の携帯型コンピュータを試作し,そして痙性患者の筋電信号を計測して大量的に痙性を評価することである。筋緊張が異常にJL進している時間,FEMG信号の振幅などから痙性の定量的評価が可能であると考えており,その評価法の確立を図る考えである。