2011年[ 中谷賞 ] : 年報第25号

コヒーレントラマン散乱顕微鏡による生体分子の無染色な高解像度・高速観測

研究責任者

橋本 守

所属:大阪大学大学院 基礎工学研究科 機能創生専攻生体工学領域 准教授

概要

1.はじめに
光学顕微鏡は生きたままの細胞等を、比較的高分解能で観測されることから、生物・医学分野で広く用いられている。一般的に、葉緑体などを除き組織・細胞はほとんど無色透明である。したがって、細胞内の生体分子を分別観測するために染色を行わなければならない。2008度のノーベル化学賞は「GFP(Green Fluorescent Protein)の発見とその応用」に対し贈られた。GFPは、今では生物・医学研究に広く利用され、生きた細胞の特定のたんぱく質を光らせることができるため、細胞機能解明に大きな効果を発揮している。しかしながら、GFPによる観測も染色方法の一種であり、発現したGFPによってタンパク自身の活性が低下しないか常に検証する必要がある。また、遺伝子導入過程が含まれるため、実際の人間へと適応することや再生医療への適用も安全面に問題がある。したがって、なんら前処理なく生体組織・細胞を、分子レベルで識別し観測することが可能な手法の開発が望まれている。
分子は質点である原子が、化学結合というばねによって結び付けられたものであり、振動する。ラマン散乱分光は、この全ての分子が持つ分子振動を観測することで、分子種の同定や、分子の置かれた環境、分子の構造変化に関する情報を得る分光手法である。したがって、ラマン散乱分光を顕微鏡下で行うラマン散乱顕微鏡は、無染色に分子種のマッピングや分子の構造変化を観測することが可能な手法であり、これを生物・医学研究に用いることができれば、画期的な手法となる。しかしながら、自発ラマン散乱の強度は非常に弱い。このため、自発ラマン散乱では観測時間が膨大なものとなってしまい、とてもリアルタイムで観測することはできなかった。
高強度なラマン信号を得られる分光手法として、CARS(Coherent anti-Stokes Raman scattering)分光が挙げられる。CARSは、4つの光子が関与する非線形なラマン散乱現象であり、1965年にP. D. MakerandR. W. Terhuneによってはじめて報告された1)。図1にCARS過程を示すが、角振動数ω1,ω2(ω1>ω2)の2色のレーザー光を入射した際に、それらの周波数差が、ラマン活性な分子振動の周波数と一致したとき、角振動数2ω1一ω2の光が放射される現象である。また、コヒーレントな放射であるため、指向性が高くその光強度が自発ラマン散乱に比べ非常に大きいことが知られている。
CARS分光の顕微鏡への適用は、1982年にDuncanらによって行われた2)。彼らは、位相整合条件(コヒーレントな非線形光学現象を効率よく起こす条件)を満たすために、入射レーザー光を強く絞らずに観測領域全体に照射し、発生するCARS光の検出を顕微鏡下で観測していた。このため、非線形光学効果による空間分解能向上は達成されていなかった。
2.CARS顕微鏡の提案と観測ラマンシフト領域の拡大
Duncanらとは異なり、現在広く用いられているCARS顕微鏡では、励起レーザー光を同軸に重ね合わせて強く絞り込む光学配置を用いる。著者3・4)とZumbusch5)らは独立に、この励起レーザー光を同軸に重ね合わせ強く絞り込む光学配置を用いた顕微鏡を開発した。この手法では、非線形光学効果による空間分解能、特に光軸方向の分解能が高まり、また強く集光することで発光領域が小さくなることから位相整合条件が緩和される6)。また、Zumbuschらの観測結果は、3000cm'1付近の高波数ラマンシフト領域に限られていた。3000cm'1付近の高波数ラマンシフト領域の分子振動にはCH、OH、NH等の伸縮振動が現れるが、それほど分子に対する定性能は高くない。むしろ、分子振動は、指紋領域と呼ばれる500~1800cm'1の領域でその分子構造を反映したスペクトルを示す。そこで我々は、指紋領域でのCARSイメージングを行った7)。しかしながら、これらのシステムでは光源に再生増幅器を用いていたため、レーザーの強度揺らぎが大きく、また繰り返し周波数が低いためイメージングには適していなかった。
3.CARS顕微鏡用レーザーの高精度制御
CARSスペクトルから物質を分別するためには、少なくとも2波長のレーザー(ω1およびω2光)が必要となり、それらの周波数差すなわち波長差も走査する必要がある。CARSは非線形な光学過程であり、発生するCARS分極PCARSは
で与えられる。ここで、x(3)は三次の非線形感受率、E卯。駄はω1およびω2光の電場、をは複素共役を現す。したがって、CW光を用いるよりも、ピークパワーが著しく大きい超短パルスレーザーを用いると効率よくCARS光を発生させることが可能となり、また平均パワーは小さいため試料に対する光ダメージを小さくすることができる。しかしながら、パルス時間幅をいたずらに短くすることはできない。典型的なフェムト秒レーザーの時間幅は100fs前後であるが、例えばチタンサファイアフェムト秒レーザーのスペクトル幅は不確定性原理(フーリエ変換限界とも呼ばれる)により10nmほど広がっている。これを波数で表すと約150cm'1となるが、一般的なラマンバンドは数cm-1から十数cm-1程度であるため、フェムト秒レーザーのスペクトル幅はラマンバンドの10倍以上広く、個々のラマンバンドを分別することが難しくなる。これらをまとめると、CARS顕微鏡の光源として必要とされる項目として、
>安定した光強度
>高い繰り返し周波数(イメージを観測するために高い繰返し周波数が必要)
>2波長のレーザー
>波長可変レーザー
>狭いスペクトル幅(一般的なラマンバンドは、数cm'1から十数cm'1であるため、数cm'1程度以下(0.2nm@800nm)が要求される)
>短いパルス時間幅(試料へのダメージを抑えるために、平均パワー下げながら、かつ非線形現象であるCARS光強度を高めるために、短いパルス時間幅が必要。ただし、不確定性原理よりパルス幅とスペクトル幅を同時には小さくできないため、数psのパルス幅が最適となる。
が要求される。そこで、我々は2台のピコ秒チタンサファイアレーザーを同期動作させたシステムを開発した。
3.1高精度同期システム
CARSは2色のレーザー光を同時に試料に照射する必要があるため、2台の別々のレーザーを用いた場合、同期を取る必要がある。入射レーザー光を時間幅rのガウス形、2レーザー間の時間差をτとし、τが揺らぐことによって雑音が生じると仮定すると、観測されるCARS光のSN比は
で表される。ここで、E[・]は期待値、V[・]は分散を表す。τの揺らぎが白色ガウス雑音であると仮定すると、CARS光のSN比とパルス幅1ジッター比との関係は、図2に示したような関係となる。パルス幅を5psと仮定すると、1ps程度のジッターがあるとき、すなわちジッター・パルス幅比が0.2の時、SN比は30程度となる。また、SN比1000を得るためには、ジッター・パルス幅比を0.02以下にする必要があり、パルス幅を5psの場合ジッターを100fs以下に抑えなければならないことが分かる8)。
そこで、バランス相互相関と2光子検出器を用いたジッター観測手法を開発し高精度な同期レーザーシステムを実現した9)。レーザーの同期システムは、一種のPLL(phase lock loop)制御により実現される。PLLはクロックの生成に良く用いられ、マスター発振器からの信号と、スレーブ発振器からの信号の時間差を検出し、このずれを小さくするようにスレーブ発振器の発振周波数を変更し、両者の同期を取るものである。
図3に同期システムの構成図を示す。モードロックレーザーのパルス間隔Tは、レーザーのキャビティ長Lで決まり、
で与えられる。ここで、Cは光速である。したがって、レーザーのエンドミラー取り付けられたPZT(Piezo Transducer)によりレーザーのキャビティ長Lを変化させ、パルス間隔(パルス周期)を制御することができる。このレーザーをスレーブレーザーとし、他方のマスターレーザーとの時間差が0になるように発振周期を制御する。この際、両者の時間差(ジッター)を高精度・高感度に取得する必要がある。
高速なフォトダイオードを用い、2レーザー間の時間差を電気的に計測し、この信号をレーザー共振器長にフィードバックすることで、約1-2ピコ秒程度までジッターを低減することが可能である。これに加え、図3中に示した、バランス相互相関器によって、フェムト秒オーダーのジッターを観測して、高精度な同期を実現した。バランス相互相関器は、ダイクロイックミラーと高反射ミラー、2光子検出器から構成された2台の相互相関器から構成される。ダイクロイックミラーと高反射ミラー間のギャップによって、2ビーム問には遅延が与えられるが、2台の相互相関器では、遅延の与え方が逆転している。このため、2台の相互相関器の差出力は両レーザーのジッターを出力し、ピコ秒レーザーを用いてもフェムト秒オーダーの感度を持つ。
図4(a)にバランス相互相関器によって計測した、2レーザー間のジッター信号を示す。高速検出器を用いた電気信号による同期(約10秒まで)ではジッターは約1psであったが、バランス相互相関器を用いた場合(約10秒から)では、最短8fs(帯域150Hz)までジッターを減少させることができた。また,電子回路によるジッター検出の場合に得られたイメージ(b)と、バランス相互相関器による場合の結果を(c)を示すが、レーザーを横方向に走査するラスター走査による像のため,ジッターが多い場合には横方向に縞状の模様が現れているが,ジッターの低減によりそれらが取り除かれていることが分かる。
3.2パルス幅制御システム
CARSスペクトルを得るためには、少なくとも一方のレーザー光の波長を走査できなければならない。しかしながら、我々が使用しているpsチタンサファイアレーザーでは、波長走査を行うと、レーザーのパルス幅が変化してしまう。そこで、レーザーの波長走査時にレーザー光のパルス幅を常に最適化する必要がある。我々は、2光子検出器を用いて、高速にパルス幅を検出しパルス幅を常に最適化するシステムの構築を行った10)。
3.3波長走査と同期・パルス幅制御
図5は、レーザー波長を変化させたときの同期制御やパルス幅制御の様子を示したものである。パルス幅情報を現す2光子検出器の出力(上、パルス幅に反比例)と、2レーザーの波数(波長)差(下)を示す。レーザー波長の300msで、波長走査、同期制御・レーザーパルス幅の最適化が終了し、高速に波長走査可能なレーザーシステムを構築することができた。
4.多焦点リアルタイムCARS顕微鏡の開発
CARS顕微鏡では、通常ガルバノミラーによってレーザービームを走査し、試料上各点から発生するCARS光を光電子増倍管で検出する単焦点励起法が用いられる。また、より高速なCARSイメージングを行うため、ポリゴンミラーを用いた高速レーザービーム走査システムも開発されている。一般に、画像1点で得られるCARS信号光強度は以下の式で表される。
ここで、Zb。は露光時間、X(3)は3次の非線形感受率、五はω1光の光強度、12はω2光の光強度、Nは焦点数である。一般的なガルバノミラー等を用いた単焦点励起法では、1ビーム(単焦点)を走査することでイメージングするため、高速なイメ一ジングを実現するためには、必然的に露光時間徽を短くする必要がある。このため、十分な信号を得るためには励起光強度を強くしなければならない。しかし、超短パルスレーザーを用いた非線形光学顕微鏡では、1焦点あたりの励起光強度には試料への光ダメージによる上限がある11)。
1焦点あたりの励起光強度を増加させず高速なイメージングを実現するために、我々は励起光の空間的並列化(多焦点励起法)を行った。多焦点励起法の場合、レーザービーム走査を並列化することによって1焦点あたりの露光時間を焦点数に比例して増やすことができる。これにより、1焦点あたりの励起光強度をダメージ閾値内に抑え高速イメージングが可能となる。例えば、試料上で100焦点形成した場合、露光時間も100倍に増やすことができる。
そこで我々は、マイクロレンズアレイを用いてレーザーの多焦点化を行った12)。図6にマイクロレンズアレイを用いたCARS顕微鏡システムの全体図を示す。マイクロレンズアレイは、微小な多数のレンズが一枚のガラス円盤上に配置されたもので、これに比較的大きな断面積の光ビームを通すと、複数のスポットが形成される。各スポットから放射されるCARS光を、対向配置した対物レンズで2次元カメラ上に結像する。マイクロレンズアレイを高速に回転させることで、スポットが移動し一度にCARSイメージを取得することが可能となる。
図7に3次元再構築したHeLa細胞を示す。1画像0.2秒の露光時間で観測し、トータル85枚のイメージから再構成を行った(全イメージの取得に約17秒)。観測は、2840cm-1で行い主に脂質のCH2伸縮振動が画像化されている。脂質を多く含む細胞内小器官が映像化されており、なんら前処理なく短時間露光で可視化できた。
5.CARS顕微鏡の多焦点化による細胞観測への影響
同じCARS信号を得る場合、多焦点化により1焦点あたりの光強度を単焦点の場合より小さくすることが可能となるが、総照射レーザー光強度は逆に、多焦点の方が単焦点より大きくなる。そこで、実験的に多焦点と単焦点励起の場合に生細胞観測へどのような影響があるか調べた。
DAPIは、核染色色素であるが、生細胞では細胞膜の透過性が悪くまた排出機構のために染色されにくいが、死細胞では容易に核が染色される。そこで、DAPI色素の2光子蛍光イメージから光ダメージを評価した。図8に細胞核の2光子蛍光強度の時間変化を示す。入射レーザー光のパワーは、同一CARS信号を与える条件とした。なお、単焦点励起と多焦点励起で同じ信号となるように、2光子蛍光信号を1スポット当たりの光パワーの自乗と焦点数で除算したものをS七。xi,ityと定義した。レーザー照射を行うことで、St。xi,ityが強くなっていることがわかる。特に、単焦点レーザー走査法で照射した場合に強い蛍光が得られ、レーザー照射12分以後に多焦点レーザー照射法における2光子蛍光強度と有意な差が見られた(P<0.05)。レーザー照射を行うことで細胞膜状態の変化またはHeLa細胞のDAPI色素の排出機構が阻害されたことを表わしており、単焦点レーザー走査法の方が強いフォトダメージを与えていることが示された。
6.生細胞のリアルタイムCARS観察
図7に示すように、高速に細胞の持つ脂質を可視化できることが分かった。そこで、我々はレーザーアブレーションにより遠隔的に生細胞を刺激し、その反応の観測を行った。観測ラマンシフトは、2840cm'1で、脂質のCH2伸縮振動に合わせた。図9は、細胞内の小器官にレーザー光を集光して破壊した前後のイメージである。図を見て分かるように、レーザー光照射によって、細胞内の小器官が破壊され2つに分断されていることが分かる。
また、図10に、レーザーアブレーションによる生細胞の細胞膜破壊とその修復の様子をリアルタイムに観測した例を示す13)。これも、2840cm'1のCH2伸縮振動の発光強度を表すが、レーザー照射によって信号強度が上昇することが示された。これは、細胞外にあるCa2+が細胞内に流入することを防ぐための防御反応であるresealingが起こった結果だと考えている。Ca2+は細胞にとって有害であるので、細胞膜が破壊されると、その進入を阻止しなければならない。このため、破壊箇所に小胞が集まり、小胞同士が融合することにより穴を塞ぐ反応が起きると考えられている14)。CH2伸縮振動のCARS信号の上昇は、この小胞の集合による脂質濃度の上昇によるものであると考えている。このような研究はこれまで、細胞外に脂質と結合すると発色する蛍光色素を用いて研究が行われていた。しかしながら、この手法では、Ca2+と共に細胞内に流入した蛍光色素によって可視化されるため、色素流入されていない箇所での小胞の動態についてはなんら情報を与えることができなかった。開発したリアルタイムCARS顕微鏡でアブレーション前から脂質(小胞)の観測を行えるようになった。
7.近接場効果を用いた高空間分解能CARS顕微鏡
光学顕微鏡は、回折限界により波長程度の空間分解能しか得られないとされてきたが、近年の近接場光学により、より高分解能なイメージングが可能であることが、示されるようになってきた。そこで、まず金属ナノ微粒子によるCARSの増強効果があるかどうか検証を行い15)、CARSを近接場光学に適用した近接場CARS顕微鏡の開発・観測を行った16)。図11に近接場CARS顕微鏡での観測結果を示すが、15nmという、使用レーザー光の波長に比べて50分の1以下という、非常に高空間分解能なイメージを得ることができた。また、この分解能は、線形な光学効果である自発ラマンよりも高く、非線形光学効果によることが示された。
まとめ
我々は、同軸光学配置を用いたCARS顕微鏡を提案し、その観測波数領域の拡大、CARS顕微鏡の3次元光学特性の理論的導出、CARS顕微鏡用光源の開発、マイクロレンズアレイを用いた多焦点CARS顕微鏡の開発、レーザーアブレーションによる細胞膜破壊とその修復過程観測への応用、近接場顕微鏡との組み合わせによる超解像イメージング等を行ってきた。CARS顕微鏡では、脂質分子の細胞内での動態等についての観測例が多数報告されており17・18)、また誘導ラマン散乱を用いた新しい手法等も報告されている19)。レーザーアブレーションと組合せることで、細胞内部の特定の箇所だけにアクセスしながらの無染色な高速観測により、様々な観測への応用が期待できるだろう。
細胞・組織観測へのCARS顕微鏡のアプリケーションとして報告されている研究は、現在のところ2800-3000cm-1の高波数領域に現れるCH伸縮振動がほとんどである。これは、CH伸縮振動は強いCARS(ラマン散乱)信号が得られ、非共鳴バックグラウンドと呼ばれる、分子振動とは無関係な背景信号の影響を受けにくいためである。しかしながら、指紋領域と一般に呼ばれる500-1800cm'1付近に表れる分子振動を用いると、より詳細に分子種を見分けることが可能となる。誘導ラマン散乱顕微鏡など、高SN比で指紋領域を観測可能な手法が開発されており、今後さまざまな分野へと応用されるものと確信している。