2002年[ 技術開発研究助成 ] 成果報告 : 年報第16号

コヒーレントアンチストークスラマン散乱による生体組織の3次元局所空間分子分光分析

研究責任者

橋本 守

所属:大阪大学大学院 基礎工学研究科 システム人間系専攻 講師

概要

1.はじめに
光学顕微鏡により、ミクロンからサブミクロンの空間分解能で細胞内の分子やイオンの分布を観測することが可能であるが、通常どの分子やイオンを観測するのかといった定性能力は特異染色に負っている。染色作業は複雑で時間がかかり、かつ熟練を要する。また、染色自身によって細胞が機能を失う場合も多々あり、実験条件に大きく依存する。近年、チタンサファイアレーザ等の超短パルスレーザの発達によって、非線形光学効果を用いた多光子励起蛍光顕微鏡が開発され、長波長励起のため細胞毒性が少ない、散乱が少ないため比較的厚い試料を観測することができる、共焦点光学配置を取らなくても3次元分解能を持つため明るい光学系となる等の特徴により普及が進んできているが、染色によって像を得るという点では従来の蛍光顕微鏡と変わりない。したがって、生命現象を研究する上では、生きたままの細胞を、その場で、非染色に、細胞内の分子分布を観測する手法の開発が望まれている。
2.CARS顕微鏡
分子は、質点(原子)とバネ(化学結合)で構成されるため、必ず分子振動を持ち、この分子振動の振動周期は構成する原子や化学結合、分子構造に強く依存する。ラマン散乱分光や赤外分光は、この分子振動を観測する手法で、分子種の同定や分子構造解析に広く用いられている。しかしながら、ラマン散乱分光を顕微鏡と組み合わせたラマン散乱顕微鏡は、感度が低い、蛍光による妨害を受ける等の問題を持ち、また赤外吸収顕微鏡は、生体組織に含まれる水の強い吸収による妨害や、波長が長い為に空間分解能が10ミクロン程度に限られる等の問題により、生体試料測定に一般的に用いられているとは言い難い。
図1に示すように,物質にω1とω2の角振動数を持つ光(以降ω1光,ω、光と呼ぶ)を入射し、それらの角振動数差が分子振動の角振動数Ωと一致したときに、誘導ラマン散乱によって2ω1一ω2の反ストークス光が放出される現象をCARS(コヒーレントアンチストークスラマン散乱)と呼ぶ。我々は、このCARSを顕微鏡に適用したCARS顕微鏡を提案し、その装置開発を行っている。
図2にCARS顕微鏡の光学配置を示す。波長の異なる2つのレーザ光(ω1,ω2光)を同軸上に重ね合わせ、対物レンズ1で強く絞る。CARSは非線形光学現象であるために、多光子励起蛍光顕微鏡と同様、レーザ光を顕微鏡対物レンズ等によって強く絞った場合、光子密度が高い焦点近傍でのみCARS光が発生する。発生したCARS光を、他方の対物レンズ2によって受光し、フィルター等でw,、ω2光からCARS光を分離して検出器で観測する。試料を3次元に移動可能なステージ上に載せ、移動させることで3次元画像を得る。また、w,、ω2光の周波数差を変化させることで、分子振動に関する情報を得ることができる。したがって、CARS顕微鏡によって、非染色に分子種の同定、分子構造に関する知見をミクロンオーダの分解能で観測することが期待される。また、一般的なラマン散乱分光では問題となる蛍光からCARS光を分離して(CARS光は入射光より波長が短い)観測でき、また非線形光学効果によって顕微鏡対物レンズの焦点近傍のみの情報を検出(すなわち3次元分解能を持って)することができるといった特徴を持つ。
これまで、我々はCARS顕微鏡の3次元結像特性の理論的な導出1)2)や、指紋領域と呼ばれる低波数Ramanシフト領域を観測可能なシステムの開発を行ってきた3)。しかしながら、これまでは画像を得るためにはサンプルを移動させる必要があり、高速な画像取得は難しかった。CARS顕微鏡で分子分布計測を行うためには、画像とスペクトルの2つの情報が必要となるため、測定時間の短縮化が要求される。そこでマイクロレンズアレイと呼ばれる微小なレンズが集積化したものを用いて多焦点化し、高速なCARS画像取得が可能なシステムの構築を行った4)。
3.多焦点CARS顕微鏡
図3に多焦点CARS顕微鏡の概略図を示す。同軸上に重ね合わせたω1、ω2光をマイクロレンズアレイに照射すると、多数の点に集光される。この光を顕微鏡対物レンズで試料に投影することで多数の点からCARS光が発生する。発生したCARS光をもう一方の対物レンズで2次元検出器上に結像し、さらにマイクロレンズアレイを回転することで試料中のある断面上の画像を一度に得ることができる。
CARSは非線形光学現象であるため、レーザー光のピーク強度が高いほどその発生効率は高いが、CWレーザを用いると試料が容易に損傷する。このため、高いピーク強度と低い平均パワーを持つ、超短パルスレーザを励起光源に用いた方が有利である。しかし、フェムト秒レーザは波長幅がRamanバンドの波長幅に比べて著しく広いため、波数(波長)分解能が低下し個々のラマンバンドを識別することができない。そこで高いピークパワーと高い波数分解能の両方を満たすために、ピコ秒レーザをCARS顕微鏡の励起光源に用いた。
図4にシステム全体の構成図を示す。フェムト秒チタンサファイアレーザ(波長775nm)からの光を、ピコ秒再生増幅器(RGA)で増幅した後2つに分け、一方をω1光に用い、もう一方の光でピコ秒光パラメトリック増幅器(OPA)を励起し、その出力(アイドラー光の第2高調波)をω2光とする。これら2つの光をビームスプリッタを用いて空間的(同軸上)に重ね合わせ、さらに光学遅延によって時間的に重ね合わせて多焦点CARS顕微鏡に入射し、発生したCARS光はイメージインテンシファイア付きCCDによって検出される。
CARSスペクトルを観測するためには、ω2光の波長走査が必要となる。光パラメトリック増幅器の内部では、再生増幅器からの光は3分割され、1)白色光の発生、2)発生した白色光の初段パラメトリック増幅、3)2段目のパラメトリック増幅、に用いられる。2)および3)のパラメトリック増幅時の増幅用結晶の角度と、2)と3)の間に置かれた回折格子による波長選択によって、最終的に発生するアイドラー光の波長が決定される。したがって、分光器によって波長を常にモニターしながら、パラメトリック増幅用光学結晶の角度と回折格子の角度を制御することで、任意の波長のω2光を得られるように光パラメトリック増幅器の改造を行った。図5に典型的なω1光(776nm)、およびω2光(841nm)のスペクトルを示す。スペクトル幅は、それぞれ14cm"1(0,85nm)、20cm曹1(1.45nm)であった。
また、ω1、ω2光の強度はCARS光に比べて非常に高く、また波長も近接しているため、一枚のフィルターでは十分にω1、ω2光を除去することが難しい。したがって、特性の異なる4枚の光学フィルタを組み合わせて用いた。
4.結果
図6に、液体ベンゼンをマイクロレンズアレイを止めてCARS光を観測した結果を示す。100個程度の多数の場所が同時に励起、観測されている様子が分かる。マイクロレンズアレイを回転させることによって、各点が移動し、試料中の1断面のCARS画像が測定されることとなる。
図7に開発した多焦点CARS顕微鏡を用いて、ω2光の波長を順次変えることによって観測したポリスチレン球(直径4.Sim)とガラス球(直径3-5μm)が混在した試料のCARS像およびCARSスペクトルを示す。ポリスチレンはラマンシフト1000cm-1付近にフェニル基骨格の強いラマンバンドを持つが、この付近にガラス球は強いラマンバンドを持たない。このため、ポリスチレン球とガラス球をCARSスペクトルから容易に区別することが可能である。また、ポリスチレンのバンドより、現在のスペクトル分解能は約30cm冒1であることが分かる。なお、1枚の2次元像の観測時間は約20秒で、従来の観測時間を約100分の1秒に短縮することができた。
通常のストークスラマン散乱を観測するラマン散乱顕微鏡では、ラマンスペクトルの観測には必ず分光器を用いて分光する必要があるため、このような、マイクロレンズアレイを用いた多焦点化することはできない。CARSでは入射するレーザ光の振動数差を掃引することによってスペクトルを得ることができるため分光器を必要とせず、容易にマイクロレンズアレイを用いての観測の並列化が可能となった。
5.おわりに
CARS顕微鏡の観測時間を短縮するためにマイクロレンズアレイを用いた多焦点CARS顕微鏡を開発し、従来より観測時間を100分の1に短縮することが可能となった。現在の波数(波長)分解能30cm-1ではまだスペクトル観測には十分であるとは言い難い。今後、さらに波数(波長)分解能を高め、生体組織観察へ適用していきたい。