2008年[ 技術開発研究助成 (開発研究) ] 成果報告 : 年報第22号

イオン付着飛行時間法を用いた万能型呼気分析装置の開発

研究責任者

酒井 康弘

所属:東邦大学 理学部 物理学科 助教授

概要

1. はじめに
呼気とは本来、動植物に関わらず呼吸によって排出される気体を意味するが、一般的にはヒトのそれであると捉えられている。呼気はヒトの代謝反応によって生じた物質を含むと考えられるので、それが生体に関して何らかの情報をもっていると考えることは不自然ではない。もっとも、『呼気』を科学的に扱うことができるようになったのはごく最近のことである。現在では、呼気中には数百の成分が含まれていることがわかっているほか、医療現場では呼気を用いたいくつかの診断法も確立されている。しかし、呼気中に含まれる成分のうち化学的に同定されたものは百種類程度に過ぎず、未知成分も多い。また呼気を用いた診断法の例としては、胃潰瘍や胃がんの原因物質として知られるピロリ菌の検査として知られる尿素呼気試験や、糖尿病診断などがあり、被験者の体を全く傷つけない不可侵な検査として知られているが、それぞれの目的ごとに別の装置、あるいは適当な前処理やカラムの選択(ガスィロマトグラフィー)が必要となる。これは、一般の分析装置、例えばガスクロマトグラフ質量分析装置や赤外線分光装置などが、物質の化学的な性質を用いて分析対象の選別を行っているためである。つまり分析の視点は、測定対象である試料の中に「X という物質があるかないか」というものである。したがって物質X の化学的な性質を用いることができ、前処理やカラムの選択が可能となる。しかし測定対象が未知試料の場合、多くの種類の物質の存在を想定し、その一つ一つについて調べていかなければならない。当然、大量の試料が必要となり、多くの時間と費用がかかることになる。そこで本研究では、1 台の装置で呼気中に含まれるすべての化学物質を高感度、高分解能で計測できる万能型の呼気分析装置の開発を目的とした。
2.イオン付着飛行時間(Time of Flight combined with Ion Attachment = TOFIA)法
2.1 フラグメントフリーイオン化法
1台の装置で、呼気の中に含まれるすべての物質を前処理なし、つまり化学的性質を使わずに定量的に測定するためには、物理的な測定、すなわち物質に固有の質量を測り物質の同定を行う質量分析法が適している。質量を測る方法にはいくつかあるが、微量物質を対象とすると、質量の選別には電磁気学的な性質を利用することになる。つまり、標的をイオン化するというプロセスが必要となる。ところが、このイオン化の際の余剰エネルギーによって試料を構成する物質の分子構造を壊してしまうことがよくある。標的物質が壊れて、フラグメントと呼ばれる解離片を生成してしまう(フラグメンテーションとも呼ばれる)と、検出された物質がもともと試料中にあったのかイオン化の際に生じたのかがわからなくなってしまう。これは質量分析においては大きな問題であった。2002 年のノベール化学賞で一躍有名になった田中耕一氏によるMALDI(マトリックス支援レーザー脱離イオン化)法やFenn 教授のESI(エレクトロスプレーイオン化)法は、そういったフラグメンテーション問題を解決する方法として評価されたものである。ただ、残念なことにはこれら2 つの切り札的イオン化法は、主に固体や液体などを対象としたもので、気体を対象とはしていない。
本研究では、イオン化法として、イオン付着法1)を採用している。これは、藤井らにより開発(特許第3236879 号、H13/10/5)されたもので、イオン化の際に対象物質から電子をはぎとってイオン化するのではなく、アルカリ金属イオンを付着させてイオン化を行う。このために、他のイオン化法に比べ余剰エネルギーが小さく、複雑な分子を標的とした場合でもフラグメンテーションが起きにくい。イオン化室内には第三体として窒素ガス(N2)が封入されていて、Li 付着イオンの余剰エネルギーは窒素ガスとの衝突失活により失われ安定化する。これらの反応は、気相中で行われるため、イオン付着法は気体を対象としたフラグメントフリーイオン化法といえる。図1 に本研究で用いるイオン付着法の概念を示した。付着させるイオンとしてLi が選ばれたのは、最も軽いアルカリ金属であること、同位体が少ない(質量数6と7)こと、アフィニティ(親和力)が高いことが理由である。
2.2 イオン付着飛行時間(TOFIA)法
本研究では、前述したイオン付着法を質量分析のための飛行時間(TOF)分析法と組み合わせた「イオン付着飛行時間(Time Of Flight combined with Ion Attachment=TOFIA)法」が用いられている。質量分析の方法として用いられた飛行時間(TOF)質量分析法は、分析対象をイオン化し、ある長さの飛行管を飛行する時間を測定するもので、エレクトロニクスを工夫することにより多種のイオンを同時に検出することができる。このため測定時間の大幅な短縮が可能で、原理的には1 つのイオンから検出できるので非常に高感度である。イオンの選択性(分析器の分解能)は、数百程度の質量数のものが大半を占める気相中の分子を対象とする計測に関しては大きな困難はなく、反射型等を採用すればさらに数万という分解能の達成も可能である。
このTOFIA 法を用いた質量分析装置の開発は、我々のグループで数年前より開発を進めていたもので、測定対象である試料の中に「X という物質があるかないか」という視点ではなく、「何が含まれているのか」という視点をもった分析装置である。つまり、試料の中に含まれるすべての成分の種類と量を測定できる。この特徴は多種の成分を含む呼気の分析には最適であろう。実は、イオン付着法を四重極型質量分析計(QMS)と組み合わせた分析装置が市販されている2)が、TOFIAでは観測対象の高質量化と高分解能化さらには高感度化のため、TOF 質量分析法と組み合わせた。
3.実験装置
3.1 実験装置本体(TOFIA-V)
本研究で開発された実験装置の概略を図2 に示す。本装置は、プロトタイプとして開発されたイオン付着飛行時間分析装置(TOFIA)3)を直交型に改造したもので、TOFIA-V と名付けられている。
装置はI 室からV 室で構成されていて、ⅠからⅢ室がイオン源部(Ion Source)、Ⅳ室が直線引き出し部、Ⅴ室が質量分析部であり、ここに飛行時間(TOF)型質量分析器が収納されている。I 室はイオン化室でLi エミッターと呼ばれるイオン源が置かれ、第三体ガスとしてN2 が100Pa 程度封入されている。試料ガスもI 室に導入されるが導入量は0.1Pa 程度である。各導入量はそれぞれ質量流量計と微量調整バルブにより制御され、バラトロン真空計によって常にモニターされている。
Ⅰ室内でLi+イオンが付着したことで生成された付着イオンは、追い返し電極(リペラー)によりⅡ室に向かってこの雰囲気中をドリフトしていき、Focus レンズとⅠ室とⅡ室の境界に設置された小孔(アパーチャー)を通ってⅡ、Ⅲ室へと導かれる。Ⅱ室はⅢ室との差圧緩衝室として設けられている。Ⅲ室には4 枚の電極からなる静電レンズが設置され、コリメートされたイオンビームをⅣ室へと導く役割を担っている。これらイオン源部はキヤノンアネルバテクニクス㈱から市販されているIAMS とまったく同型のものを用いている。
Ⅳ室は、イオンを加速、収束させるレンズで構成されている。Ⅳ室の中央付近にⅤ室から取り付けられたTOF 型質量分析装置のイオン引き抜き部があり、対向する2 枚の電極それぞれに逆位相のパルス電圧がかけら、パルス状のイオンバンチが飛行時間型質量分析装置内に導かれる。さらにⅣ室には、それぞれに逆位相のパルス電圧をかけることのできる2 枚1 組の偏向電極(Deflector)も設けられており、これを使うことによってプロトタイプ型(線形型)のTOFIA としても使用できるようになっている。
Ⅴ室にはTOF 型質量分析装置が設置されている。ここでイオンは再加速された後、500mm あまりのドリフト領域を等速運動で飛行し、末端に置かれたマイクロチャンネルプレートにより2 次元的にパルスカウンティングされる。今回製作したTOF型分析器のように2 段階に加速するものは、Wiley-McLaren タイプ4)と呼ばれるもので、空間収束性をもち、イオンの飛行時間はその初期位置に依存しなくなるため、比較的高い分解能が得られる。検出されたイオンのシグナルは、時間差波高分析変換器(TAC)のストップシグナルとして使われる。TAC のスタートシグナルはイオンをパルス化するための基本シグナルを用いている。TAC の出力はパルス波高分析器(PHA)とAD コンバータによりデジタル化され、マルチチャンネルアナライザーでコンピュター上に飛行時間(TOF)スペクトルとして描かれる。これは直ちに質量スペクトルへ変換できる。図3 に完成したTOFIA-V 装置の写真を示す。
3.2 呼気採集法及び呼気インターフェース
サンプルガス及び呼気は図2 に示される装置のサンプルガス導入口より装置内に導入される。導入される試料がサンプルガスの場合には、単純にバリアブルリークバルブを用いて導入されるが、呼気の場合には多少の工夫が必要となる。まず、採集された呼気の入った汎用ガスサンプル用のステンレスパック(テドラーバック)をサンプルガス導入口に直接取り付けられるように単管とバルブを設置した。この単管部には水分の除去を行うためにシリカゲルが封入されている。さらにサンプルガスに圧力をかけて装置内に導入するために押し圧用のヘリウムボンベが取り付けられるようになっている。将来的には、この部分を液体チッソなどで冷却することが可能となるようにインターフェースは製作された。
呼気の採集は、テラメックス㈱による方法を模して行われた。呼気採集のためのインターフェース部を図4 に示す。呼気を採集する場合、気管を行き来するだけの成分(死腔とよばれる成分)を除去する必要がある。これを約450ml 程度と見積もりT ピースを用いる。呼気の最初の部分はこれで除去できる。呼気はワンウェイバルブを通り三方活栓を経て、コレクションバックに蓄えられる。測定の際には、このコレクションバックを直接サンプル導入口に取り付けることになる。
4.実験結果と検討
4.1 フラグメントフリー計測
図5 にヘキサン(CH3(CH2)4CH3)を対象とした質量スペクトルを示す。図5 の左は、電子衝撃法によって四重極型質量分析器(QMS)で得られた標準スペクトルでNIST のweb サイトにあるものである。横軸は質量電荷比に対応し、縦軸は最大の強度を持つピークを100 とした相対強度となっている。親イオンよりもフラグメントイオンが多く現れていることがよくわかる。これは珍しいことではなく親イオンがまったく観測されない物質もある。フラグメントイオンが存在すると、多成分のガスからなる混合試料を用いた場合、もとからあったものとフラグメントの区別がつかず、含有物質の同定が極めて難しくなることは明白であろう。
一方、図5 右は、ヘキサン(CH3(CH2)4CH3)の蒸気を大気中で捕集したものを試料とし、TOFIA で得られた飛行時間スペクトルである。横軸は相対的な飛行時間を、縦軸は検出されたイオンカウントを示し、グラフ中に質量数(m/e)も併記した。計測時間は1200 秒である。スペクトル上に見出されたピークはわずか5 本であり、図3 のスペクトルと比較すると大きく異なっていることがわかる。飛行時間の早い側に目立つ大きなピークは6Li+、7Li+であり、付着せずにTOF 分析器内に入ったプライマリのイオンである。6Li+、7Li+のピークの強度比は同位体存在比と一致した。このほかのイオンはLi+が付着した付着イオンで、物質に質量数7を加えたものとして観測される。まず42μsec 付近のピークが、ヘキサンの親分子にLi+が付着したイオン(CH3(CH2)4CH3)Li+であると同定された。20~30μsec の範囲にみられる2 つのピークはそれぞれ(H2O)Li+、(N2)Li+である。(N2)Li+は、第三体ガスとして導入されているN2 と大気成分としてのN2 に由来するものであり、(H2O)Li+は、大気中にわずかに含まれる水分に由来するものである。大気中の酸素(O2)由来のピークが現れないのは、Li イオンのO2 に対する付着効率が小さいからであると考えられる。一般的に対称性がよく分極率の小さな分子にはLi イオンが付着しにくい。試料ガスとして導入されたヘキサンの親イオン以外に、ヘキサン由来のピークが存在しないことから、1 つの試料成分に対して1 ピークというフラグメントフリー計測が成し遂げられたことが確認できた4)。
このほか、エタノール、ヘキサン、トルエン、ジペンテン(リモネン)をそれぞれ大気中濃度として100ppm づつ含む混合試料を用いた実験も行った。結果を図6 に示す。混合試料においても1成分につき1 ピークであることが確認できる。なお、スペクトル上の各成分ピークの強度比は大きく異なり、組成比を反映せず、Li+イオンの付着効率に左右される。我々は、同じ試料をガスクロマトグラフィーで同時に測定しており、TOFIA スペクトル上でのピーク強度と比較することで、さまざまな物質についての付着効率のデータを収集している。
4.2 装置の分解能および感度
ここで装置の分解能と感度について述べておく。本装置では、分解能と感度は裏表の関係にある。すなわち分解能を上げようとすれば検出効率が低下してしまう。現在のところ、実用的な範囲では分解能は200 程度(質量200 と201 が区別できる)である。図7 はアセトンを例として得られた本実験装置の感度曲線である。横軸に体積濃度、縦軸には (N2)Li+ のピーク強度を1 とした相対強度を示した。相対感度曲線の直線性は5 桁以上にわたってよく、大気中濃度1ppm までの検出が可能である。装置に導入する試料は前に述べたように0.1Pa 程度であるので、クリティカルな条件として、試料そのものを第3 体ガスとしても用い、100Pa の試料を導入すると考えると、最大感度は1000 倍、すなわち0.1ppb からの検出が可能となる。
4.3 呼気の分析
以上の実験を経て、呼気中アルコールの定量測定を試みた。図8 にその結果を示す。今回の実験では、直交型では分解能は良好であったが検出効率が稼げず、数時間というオーダーの測定になってしまった。これは狙いとは逆の結果でありその原因を探り改良を施す必要がある。そこで測定は従来のTOFIA タイプ(線形型)で行われた。
この実験では、ビールを500mL 飲み、30 分後から20 分おきに呼気を採集した。20 分という時間隔は十分なエタノールの信号を得るために必要な時間であった。これは、TOFIA で得られたスペクトル中のピーク強度を窒素との相対値で求め、付着効率を換算して検出された体積濃度を決定したものである。20 分後のデータで呼気中のアルコール濃度は呼気1L 中0.15mg と概算された。概算の為、エラーバーはかなり大きく取ってある。この値は、酒気帯び運転の判断のしきい値とほぼ同じである。その後、ゆっくりとアルコール濃度は減少していくが100 分を超えたあたりからその減少率は小さくなっていく。研究レベルで飲酒後のアルコール濃度の時間変化を報告した論文等はなかなか見つけ出すことはできなかったが、飲酒運転防止のパンフレット等に使われている資料5)と比較すると、この傾向はほぼ妥当なものであるといえそうである。本研究で開発された実験装置が本質的には呼気の分析に有効であることが示された。
5.まとめ
イオン付着飛行時間(TOFIA)法を用いた万能型呼気分析装置の開発を行った。開発された実験装置はこれまで我々のグループで開発されていたTOFIA 装置の改良バージョンであり、TOFIA-V と名付けられた、今回、このTOFIA-V にいくつかの改良を施し、呼気採集用のインタ-フェースを取り付けることで万能型をうたった呼気分析装置の開発に取り組んだ。その結果、原理的にはフラグメントフリー測定に成功し、呼気のような微量多成分の物質を含むような気体の分析に対して非常に有効であることを示した。また、実際の呼気分析のテストとして、呼気中のアルコール濃度の定量測定に挑戦し、飲酒後の呼気中アルコール濃度の時間変化を求めることができた。これらにより、基礎的な実験には成功したと考えている。ただし、装置の分解能、感度の他にも呼気分析におけるいくつかの問題点が判明した。
まず、イオンの付着効率の低い物質に対しては感度が非常に悪いあるいはほとんど検出できないことがある。例えば、水素および酸素のピーク(H2Li+およびO2Li+)は見つけられない。また、尿素呼気試験で用いられる13CO2 検出についても、分解能の点では13CO2 と12CO2 の分離には問題ないが、検出感度はアセトンより4 桁も劣る。また、付着させるイオンに質量数が1 小さい同位体があることも13CO2 検出のような用途では、欠点となる。
ここに挙げたいくつかの欠点を克服し、「使える呼気分析装置」へと仕上げていかなければならない。今後、検出効率の向上のために、線形イオントラップ方式、イオンガイドなどを設置することにより、高感度で高分解能な装置として完成するものと信じている。なお、本研究の一部はすでに後に示す学会、研究会で発表されている。